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教授コラム

教授コラム Vol.73「斃れて後已む」

この文章は群馬大学総合外科学講座開講記念会誌第8号の巻頭言として書いたものです。残り少ない教授生活を意味のあるものにするために自分自身を追い込んだところもあるかもしれません。自分自身の覚悟を示しておきたいと思い、書いたものです。ご批判いただければ幸いです。

斃れて後已む

調  憲

私は平成31年(2015年)に群馬大学に赴任してからはや9年が経ち、定年まで2年を切った。これを機に少し今までのことを振り返ってみたい。桑野博行先生が退官された2017年の春からは総合外科学講座の講座主任、外科診療センター長を仰せつかった。2023年の7月から日本消化器外科学会の理事長、2024年の4月からは群馬大学の医学部長を拝命している。

私は1986年に母校の医学部を卒業してから2015年の群馬大学への赴任まで九州大学やその関連病院で勤務をしてきた。九大時代の最後には准教授という立場をいただいたが、前原喜彦教授(当時)との年齢差からいって母校の教授の目はなかった。すでに3回の他大学の教授選に敗れ、年齢も54歳であったから、もし群馬大学の教授選に敗れたら次の春から関連病院に出向することを打診されていた。厳しいと感じる方もおられるとは思うが、教授職は一般的に10年以上任期があることが重要と考えられているし、また、私の後に続く優秀な後輩たちがたくさんいたので、これ以上母教室の准教授を続けることは教室にとってもよくないと思っていた。九大時代には「組織の中でどうあるべきか?組織を発展させるために何をすべきか?」といった組織の中で自分はどうあるべきかという問いが行動の基本となっていた気がする。そのことで組織の健全な発展のあり方について考えるようになり、組織とそれを構成する個人の安易な対立的な図式は避け、組織と個人の方向性が一致することが大切であるという思いも抱くようになっていた。この時期教授選の連敗に象徴されるように、決して思い通りの外科医人生ではなかったが、今になって思えば群馬大学における教授職を全うするための長い、長い助走だったかもしれない。

2015年の赴任の当時、群馬大学の肝胆膵外科診療に対する医療事故のために、群馬県民からの信頼は大きく揺らいでいた。だから群大肝胆膵外科に赴任したことは「火中の栗を拾った」と褒めていただく方もいる。しかしながら、自分自身は群馬大学に拾っていただいたと感じている。むしろ人生の中でこれほどのチャンスをいただけることはそうあることではない。桑野博行教授(当時)のことも信頼していて、群大の外科と肝胆膵外科に強い思いを持つ若者が多くいることもわかっていたので何とかなるだろうと思っていた。実際、外科のメンバーも獅子奮迅の働きをしてくれた。そして多くの皆さんに支えていただき、ここまで来たことには感謝しかない。ただ、そのような中でも当事者意識を持たぬ人々の存在が感じられたのも事実であった。身近におきた問題に対して自分をその外に置く人もいたし、くどくどと意味のない話を重ねて、けむに巻こうとする人もいた。これらは自分の身を守る本能からくる自己防御反応であるのかもしれない。しかしながら、自分自身の存在を目の前の問題から遠ざけようとすることは問題から目をそらすことになり、その後の人の成長はないのではないか。人は反省なくしては成長もない。苦しくとも成長の第一歩は自らの改善すべき点や誤りを率直に認め、反省することから始まる。

日本消化器外科学会の理事長や群馬大学の医学部長も未来への、次世代の若者たちへの責任のある役職である。現在の日本消化器外科学会や群馬大学の医学部にも多くの問題が山積している。しかしながら、問題をきちんと認識し、必要があれば正面から取り上げ決して逃げず、少しでも解消できるよう力を尽くす。その結果次世代の若者たちが活躍できるような、活躍の舞台を作ることが私の責務であると感じている。

昨年の第79回日本消化器外科学会総会における理事長講演では“「先人の絶え間ない努力と創意工夫によって築かれた世界に誇れる消化器外科を次世代の消化器外科医が幸福を感じられる持続可能な形で引き継ぐために力を尽くし、以って消化器外科医が国民の福祉に貢献していく未来を描くこと」が私の使命である。”と自らの役割を規定した。また、近年地方にある国立大学を取り巻く環境は年々厳しさを増している。残された時間は次世代の皆さんのために「斃れて後已む」の精神で走り抜きたい。

※「斃れて後已む」は死ぬまで、けんめいに努力して途中でくじけない。 死してのちやむ。〔礼記〕:第60回日本癌治療学会学術集会の会長講演のタイトルでもあった。