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教授コラム

教授コラム Vol.57「学者は国の奴雁なり」

奴雁再掲

「学者は国の奴雁なり。奴雁とは群雁野に在て餌を啄むとき、其内に必ず一羽は首を揚げて四方の様子を窺ひ、不意の難に番をする者あり、之を奴雁と云ふ。学者も亦斯の如し」。
「人の説を咎(とが)む可らざるの論」。福沢諭吉全集第19巻(明治7年)

以前のコラムでこの言葉は紹介させていただきました。「仲間たちが餌を啄んでいるときに、不意の難に備えて周囲に注意を払っている」見張り役の雁がいて、その雁を奴雁と呼ぶそうです。福沢諭吉先生は「学者は未来に向けて警鐘をならしたり、あるいは時流に流されることなく皆が気づかない危険を察知する立場でいなければならない」ということを言いたかったのでしょう。

コロナ禍はがん医療にも大きな影響を与えています。私は群馬大学医学部附属病院の外科診療センター長を拝命しており、肺、消化管、肝胆膵、乳がんの手術症例を俯瞰できる立場にあります。昨年の9月、群馬大学におけるがんの手術症例数が減少しているのではないかと感じました。コロナ禍の影響でがんの検診数が減少していることを聞いておりましたので、検診数の減少によってがんの発見が減少し、手術数が減っているのではと考えました。そこで検診の関連が大きい肺、胃、大腸、乳がんについて各診療科にお願いをしてまず大学の症例数を調査してみました。群馬大学の手術症例数は2020年の5月から減少しており9月の時点では回復していませんでした。群馬県における新型コロナ感染症の感染拡大は首都圏ほど深刻ではありませんでした。群馬県の人口約200万人、一日当たりの新規感染者数は30名以下で、その当時特に手術制限も行っていなかったのです。やはり検診数の減少や特に高齢者では病院に受診することでコロナに感染するという懸念から受診控えが起こっていることが原因ではないかと考えました。一次検診で要精査となっている方がそのままになっているのではないかということも心配でした。

また、広範なロックダウンが数回に渡って行われた英国では、がんの発見が遅れることが懸念されています。その結果、10年後の生存率が多くのがんで10~15%程度低下する可能性が指摘されました。日本では英国ほど感染拡大は深刻ではありません。それにもかかわらず、検診数の減少や過度な受診抑制によってがんの発見が遅れ救えるはずの命ががんの発見の遅れで失われる可能性があると思いました。日本全体のデータはいずれnational clinical data(NCD)などによって明らかになるとは思いましたが、今、群馬県民にメッセージを発する必要があると思いました。数年後にコロナ禍の頃にはがんの発見が遅れ、手術が減っていたということが明らかになっても遅すぎます。その頃に一般の方に情報が提供されても、取り返しのつかないことになっています。本来発見されて適切な治療を受けていたはずの方々が、コロナ禍の影響でがんの発見が遅れて治療に悪い影響があることを恐れたのです。群馬県民に警鐘を鳴らすのは私の仕事だと直感しました。ただし、群馬大学だけのデータだけでは県民にメッセージを発するには十分ではありません。県民にメッセージを発するためには群馬県全体のデータを収集する必要があります。そこで県内のすべて17のがん診療拠点病院(都道府県がん診療拠点病院、地域がん診療連携拠点病院、群馬県がん診療連携推進病院)にお願いをしてデータを集計いたしました。実は群馬大学の外科の改革により、群馬大学の外科は総合外科学講座の大講座に移行しておりますので、17の拠点病院のうち15の病院は関連病院としてスムーズに調査にご協力をいただきました。残り2つの病院にもこの調査の主旨と意義をご理解いただき、快くデータ収集に応じていただきました。

調査の結果、群馬県下の肺、胃、大腸、乳がんの手術症例数は2020年5月~9月まで前年度比7.7%減少しておりました。手術数の減少はすべてのがん種で見られました。その第一の原因としては検診発見例の減少でした。しかし、検診発見以外の症例も減少の傾向があり、受診控えも原因として考えられました。実数としては269名の患者さんのがんの手術が減少していました。コロナ禍がなければ適切ながん医療を受けられたはずの方々が手術を受けられていない可能性がありました。

この調査結果は2020年11月に地元の上毛新聞、読売新聞の地方版に取り上げていただきました。上毛新聞は1面トップでした。また、群馬テレビでも放映していただきました。群馬県でも検診を受けるようにキャンペーンを張っていただきました。ぐんまちゃんが検診を体験するという啓発の動画がyou tubeに群馬県の監修でアップされていますが、私も出演させていただきました。

引き続き、群馬大学総合外科学講座消化管外科教授の佐伯浩司先生にお願いをして調査をいただいていますが、がんの手術症例数は一昨年並みに回復しています。ただ、本来減少した分増加してもよいはずと思いながら、経過を見ているところです。

このデータ解析には当時の群馬大学の公衆衛生学の教授 小山洋先生にご指導をいただきました。この場をお借りして厚く御礼を申し上げます。また、調査にご協力いただいたすべての先生方に心から感謝を申し上げます。調査成果は論文にすべきと考え、日本外科学会雑誌に投稿し採用をいただきました。この調査を思いついたのは祖父 調来助の影響があるかもしれません。祖父は関東大震災や長崎の原爆を生き抜いた人です。関東大震災の時には学生で友人の家に遊びに行っていて九死に一生を得たそうですが、その当時のことを記録に残していなかったので記憶が曖昧でどうしようもない。その反省の元、原爆の時には日記をつけ、記録を残した。その記録が今も原爆投下直後の状況を知る貴重な資料となっています。「世の中が混乱している時こそ、記録を残しておくことが大事だ。」と言っていたことを思い出します。私はこのコロナ禍の状況の時にこそ、何が起きたのか、きちんとデータを残すべきと感じたのです。

今回の調査によって日本全国というわけにはいかず、私は群馬県民に対する細やかなメッセージを発したにすぎませんが、「奴雁」の端くれになれたでしょうか。

参考文献

調 憲、佐伯浩司、宮崎達也、小川哲史、蒔田富士雄、設楽芳範、町田昌巳、保田尚邦、加藤広行、尾嶋 仁、細内康男、内藤 浩、龍城宏典、内田信之、岩波弘太郎、郡隆之、林浩二、岩崎茂、小山洋. COVID-19感染拡大下における群馬県がん手術症例数の減少:2020年1~9月の集計結果.日外会誌 2021; 122: 352-358