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教授コラム

教授コラム Vol.26「ダニエル・K・イノウエ国際空港」

皆さんはハワイに行かれたことがあるでしょうか。ハワイ・ホノルル国際空港は2017年4月からDaniel K. Inouye Internation Airport(ダニエル・K・イノウエ国際空港)になりました。最近、御兄弟の結婚式に出席するためにハワイに行った後輩に聞いたところ、「なんか日系人の名前が付いていましたねえ?」と言っていましたので、この話を皆さんに日本人として覚えてほしいと思い、このコラムを書いています。ダニエル・ケン・イノウエ(Daniel Ken Inouye)は1959年にアメリカの下院議員に当選後、上院に転じ50年間を米国の国会議員として過ごしました。2012年の12月に88歳でその生涯を閉じました。

ダニエル・ケン・イノウエの両親は日本からハワイ、ホノルルに移住した移民でした。イノウエは日系2世のアメリカ人として1924年に生まれました。イノウエは外科医を目指して勉学に励んでいたそうですが、ハワイ大学在学中の1941年日本による真珠湾攻撃が行われ、太平洋戦争がはじまり、その人生は大きく変わることになります。

アメリカ政府はアメリカ西海岸に居住していた日系人や日本人移民12万人をアメリカ国籍の有無に関わらず敵性外人として、ほとんどの財産を没収し強制収容所に収容しました。強制収容所は有刺鉄線が張り巡らされており、常に監視員が銃を構えているという、刑務所同然であったそうです。同じ戦争を戦っていたイタリア系やドイツ系の移民に対してはこのような処遇は行われませんでした。

このような理不尽な人種差別の中にも関わらず、多くの日系人が軍隊に志願しました。多くの日系2世はアメリカ人としての祖国に対する忠誠を証明し、名誉を奪還するために闘いに加わり、手柄を上げるしかないと思ったのではないでしょうか。このうちの一人にイノウエもいたのです。

こうして志願した多くの日系人たちは第442連隊に集められ、ヨーロッパ戦線に送られました。1944年1月からドイツ軍の「グスタフ・ライン」の攻防において激戦を繰り広げました。5月には、ローマ南方の防衛線「カエサル・ライン」の突破にも活躍しています。ローマへの進撃の途上で激戦地モンテ・カッシーノでの戦闘にも従事し、多大な犠牲を払いました。部隊はベネヴェントで減少した兵力の補充を受け、ローマを目指しましたが、軍上層部の意向によりローマを目前にして停止命令が出され、後続の第1特殊任務部隊などの白人部隊が1944年7月4日に入城してローマ解放の栄誉を手にしました。ここにも根深い人種差別があったのではないかと思われます。結局、部隊はローマに入ることを許可されず、ローマを迂回しての北方への進撃を命じられました。ベルベデーレ、ピサなどイタリア北部での戦闘に参加させられたのです。

1944年9月に部隊はフランスへ移動し、10月にはフランス東部アルザス地方の山岳地帯で戦闘を行いました。10月15日以降、ブリュイエールの街を攻略するため、周囲の高地に陣取るドイツ軍と激戦を繰り広げました。一帯は、山岳・森林地帯であるため戦車が使えず、歩兵の力のみが頼りで、凄惨な戦いとなったようです。20日には町を攻略したものの、第36師団長ジョン・アーネスト・ダールキスト(John E. Dahlquist)少将の命令により、引き続き町東方の攻略を継続しました。なお戦後のブリュイエールでは、部隊の活躍を記念して通りに「第442連隊通り」という名称がつけられました。なお、ブリュイエールでは1994年10月15日には442連隊の退役兵たちが招かれて解放50周年記念式典が執り行われたそうです。

1944年10月24日、第34師団141連隊第1大隊、通称「テキサス大隊」がドイツ軍に包囲されるという事件が起こりました。彼らは救出困難とされ、「失われた大隊」と呼ばれ始めていました。10月25日には、第442連隊戦闘団にルーズベルト大統領自身からの救出命令が下り、部隊は出動しました。休養が十分でないままの第442連隊戦闘団は、ボージュの森で待ち受けていたドイツ軍と激しい戦闘を繰り広げました。10月30日には、ついにテキサス大隊を救出することに成功しましたが、テキサス大隊の211名を救出するために、第442連隊戦闘団の216人が戦死し、600人以上が手足を失う等の重傷を負ったのです。救出直後、442部隊とテキサス大隊は抱き合って喜びましたが、大隊のバーンズ少佐が軽い気持ちで「ジャップ部隊なのか」と言ったため、第442部隊の少尉が「俺たちはアメリカ陸軍442部隊だ。言い直せ!」と激怒して掴みかかり、少佐は謝罪して敬礼したという逸話が残されていています。この戦闘は、後にアメリカ陸軍の十大戦闘に数えられるようになったそうです。また、テキサス大隊救出作戦後、第一次世界大戦休戦記念日(11月11日)にダールキスト少将が戦闘団を閲兵した際、K中隊に18名、I中隊には8名しかいないのを見とがめ、少将が「部隊全員を整列させろといったはずだ」と不機嫌に言ったのに対し、連隊長代理のミラー中佐が「将軍、K中隊の残りは彼らだけです(That's all of K company left, sir)」と答えたという話が残っています。その報告を聞いたダールキスト少将はショックの余りスピーチさえ出来なかったといいます。これは第36師団編入時には約2,800名いた兵員が1,400名ほどに減少していたのです。

イノウエも少尉として第442連隊戦闘団で激しい戦闘を戦っていましたが、イタリアにおけるドイツ国防軍との戦いで、大怪我を負ってしまいます。1945年4月21日にイノウエと戦友たちがドイツ軍のトーチカ群を攻撃した際のことでした。

イノウエが受章した名誉勲章への感状には下記のように記されているそうです。

ダニエル・K・イノウエ少尉は1945年4月21日、イタリアのサン・テレンツォ近郊における作戦中の際立って英雄的な行動によって、その名を残すこととなった。重要な交差点を守るべく防御を固めた稜線を攻撃している間、イノウエ少尉は自動火器と小銃から浴びせられる射撃をかいくぐって巧みに自身の小隊を指揮し、素早い包囲攻撃によって大砲と迫撃砲の陣地を占領し、部下達を敵陣から40ヤード以内の場所にまで導いた。掩蔽壕と岩塊からなる陣地にこもる敵は、3丁の機関銃からの十字砲火により友軍の前進を停止させた。
イノウエ少尉は自らの身の安全を完全に度外視し、足場の悪い斜面を最も近くにある機関銃から5ヤード以内の位置まで這い上がり、2個の手榴弾を投擲して銃座を破壊した。敵が反撃を仕掛けてくる前に、彼は立ち上がって第2の機関銃座を無力化した。狙撃手の弾丸によって負傷するも、彼は手榴弾の炸裂によって右腕を失うまで、至近距離で他の敵陣地と交戦し続けた。激しい痛みにも関わらず彼は後退を拒否して、敵の抵抗が破れ、部下達が再び防御体勢に入るまで小隊を指揮し続けた。
攻撃の結果、敵兵25名が死亡し、8名が捕虜となった。イノウエ少尉の勇敢かつ積極的な戦術と不屈のリーダーシップによって、彼の小隊は激しい抵抗の中でも前進することができ、稜線の占領に成功した。イノウエ少尉の類まれな英雄的行為と任務への忠誠は、軍の最も崇高な伝統に沿うものであり、また、彼自身やその部隊、ひいてはアメリカ陸軍への大きな栄誉をもたらすものであった。

後送された彼は1年8ヶ月に亘って陸軍病院に入院したものの、多くの部隊員とともに数々の勲章を授与され帰国し、日系アメリカ人社会だけでなくアメリカ陸軍から英雄として称えられました。

第442連隊戦闘団はイタリアで終戦を迎えました。隷下の第522野戦砲兵大隊は、フランス戦後はドイツ国内へ侵攻し、ドイツ軍との戦闘のすえにミュンヘン近郊のダッハウ強制収容所の解放を行いました。しかし日系人部隊が強制収容所を解放した事実は1992年まで公にされることはありませんでした。

第442連隊戦闘団の激闘ぶりはのべ死傷率314%(のべ死傷者数9,486人)という数字が示しています。死傷率314%という数字は、連隊員たちは負傷してもまた連隊に復帰し、戦い続けたことを示しています。アメリカ合衆国史上もっとも多くの勲章を受けた部隊としても知られています。

442連隊が強制収容所の被収容者を含む日系アメリカ人のみによって構成され、ヨーロッパ戦線で大戦時のアメリカ陸軍部隊として最高の殊勲を上げたことに対して、1946年にトルーマン大統領は、「諸君は敵のみならず偏見とも戦い勝利した。(You fought not only the enemy, you fought prejudice-and you won.)」と讃えました。

イノウエは1947年に陸軍大尉として名誉除隊しました。右腕を失ったことにより、当初目指していた医学の道をあきらめました。ハワイ大学に復学して政治学を専攻し、1950年にBachelor of Arts in political scienceを得て同大学を卒業しました。卒業後、ジョージ・ワシントン大学の法科大学院に進学し、1953年法学博士を授与されました。 1954年に同じく退役軍人のエルトン・サカモト、サカエ・タカハシらとCentral Pacific Bankを設立した後は政界に進出し、1959年には民主党からハワイ州選出の連邦下院議員に立候補し当選し、アメリカ初の日系人議員となりました。初登院の際、下院議長が通例通り「右手を挙手して宣誓の言葉を続けてください」と言ったのですが、イノウエは左手を挙げました。議事録には「右手がなかったのである。第二次世界大戦で、若き米兵として戦場で失くしたのだ。その瞬間、議会内に漂っていた偏見が消え去ったのは、誰の目にも明らかであった」との記録が残されているそうです。

その後、1963年には上院議員となり、戦時補償法の制定などに尽力する傍ら、1973年にはウォータゲート事件と1987年にはイラン・コントラ事件の上院調査特別委委員長となり注目を浴びました。

2012年12月ジョージ・ワシントン大学附属病院に入院したが、Walter Reed Medical Centerに搬送され、2012年の12月12日に死去しました。死去の前、「ハワイと国家のために力の限り誠実に勤めた。まあまあ、できたと思う」と述べ、最後の言葉は「アロハ(さようなら)」でした。

同月20日、遺体を納めた棺がアメリカ合衆国議会議事堂中央にある大広間に安置され、追悼式典が開かれました。大広間に遺体が安置されるのは、エイブラハム・リンカーン、ジョン・F・ケネディなど一部大統領や、ごく少数の議員に限られており、イノウエ議員は歴史上32人目、かつアジア系の人物としては初めて大広間に遺体が安置された人物となりました。ハワイ州出身で幼少時代からイノウエ議員を尊敬していたオバマ大統領は弔辞の中で、第二次世界大戦に於いて自由と威厳のために戦い、議員としては人種的平等を身上に多くの米国人に希望を与えたことを賞賛しました。また、ウォーターゲート事件調査の先頭に立っていたイノウエ議員を毎晩テレビで見ていた思い出を語り、「彼がいなければ私はここにいなかった(大統領として)」と同じマイノリティとして政治家を志す上で大きな影響を受けたと感動的な追悼スピーチを披露しました。その様子はYou tubeで見ることができます。

イノウエ議員の座右の銘は、幼少時代から祖父に教わった「義務と名誉」だったそうです。入隊前、父親からは「私達は米国に義務を負っている。国を侮辱しないこと。家族を侮辱しないこと。死ぬなら、名誉の死を遂げること」と言い渡されたといいます。イノウエにとって、米軍に入隊し、米国のために戦う事は、祖国に対する「義務」と、日系米人の「名誉」を守ることを意味していました。そしてそのことは当時442連隊に入隊した日系アメリカ人には共通の思いだったように思います。命を賭けていなければこれだけの戦功は上げられません。死傷率314%という数字はそれを示しています。彼らの生き方に「武士道」を感じざるをえません。忠誠心や名誉はこの世の最善のものであるとする「武士道」(新渡戸稲造)を読んでいただければ彼らの目指したもの、生き方が理解できると思います。間違いなく第442連隊で活躍した日系2世はサムライの心を持ったアメリカ人でありました。

この第442連隊のことは昭和30年代に心臓血管外科を学びにアメリカ、シカゴに留学した父に聞きました。彼らがいたからこそ戦後のアメリカにおける日系人への評価は高まったのだと。

(昔関連の文献を読んだことがあるのですが、見つからず、内容をウィキペデアに頼らざるを得ませんでした。誤りなどあればご指摘ください。)

参考文献

  • 山本茂美 ダニエル・イノウエの生涯―日系アメリカ人最初の上院議員の光と影 ―愛知工業大学研究報告 第48号 平成25年
  • 寺澤英光 追悼/ダニエル・K・イノウエ上院議員~アイリーン夫人が語る「日本への想い」BTMU Washington Report 2013: 1~8
  • ダニエル・イノウエ(ウィキペデア)
  • 第442連隊戦闘団(ウィキペデア)
  • 新渡戸稲造 武士道