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教授コラム

教授コラム Vol.16「柴五郎が守り通したもの」

義和団の乱は1900年におこった中国清朝末期の動乱です。義和団は中国山東省ではじまった秘密結社による排外運動でした。列強の中国への侵略、中国の文化や慣行を無視したキリスト教の布教などに対する過激な運動となり、清朝末期の混乱の中多くの民衆を巻き込んでいきます。山東省から北京と天津の間の地帯は義和団であふれかえり、1900年6月10日には20万人の義和団が北京に入城します。この結果、北京にいた外国公使たちと中国人クリスチャンは切迫した事態に巻き込まれました。当時紫禁城東南の東交民巷にあった公使館区域にはイギリス、ロシア、フランス、アメリカ、ドイツ、オーストリー=ハンガリー、イタリア、オランダ、ベルギー、スペイン、日本の外国人925名、中国人3000名が避難していました。6月11日には日本公使館の書記が義和団によって惨殺され、義和団による攻撃がはじまります。6月19日には清朝は外国人に対して24時間以内の退去命令が伝えられ、翌日から清朝軍隊による攻撃が開始され、同6月21日には清朝は列強への宣戦布告を行います。立てこもった外国人は義和団のみならず、清朝の兵隊との籠城戦を余儀なくされます。援軍による解放が行われる8月13日まで籠城は2か月に及びました。食糧や銃弾が尽きる中、厳しい籠城戦を戦い抜きました。この間の各国将兵の戦死率はイタリア兵24%、日本兵20%におよび、日本兵の戦傷率は52%ととびぬけて高かったとされています。日本兵がいかに勇敢に戦ったかがわかります。籠城戦の総指揮官はイギリス駐中公使であったクロード・マックスウェウル・マクドナルドでしたが、その指揮のもとで、最も素晴らしい活躍をしたのは日本軍のリーダーであった柴五郎砲兵中佐であったとされています。「北京籠城」という本をまとめたピーター・フレミングは「戦略上の最重要地である王府では、日本兵が守備のバックボーンであり、頭脳であった。日本を補佐したのは頼りにならないイタリア兵で、日本を補強したのはイギリス義勇兵であった。日本を指揮した柴中佐は、籠城中のどの士官よりも有能で経験も豊かであったばかりか誰からも好かれ、尊敬された。当時日本人とつきあう欧米人は殆どいなかったが、この籠城をつうじてそれが変わった。日本人の姿が模範生としてみなの目に映るようになった。日本人の勇気、信頼性、そして明朗さは、籠城者一同の賞賛の的となった。籠城に関する数多い記録の中で、直接的にも間接的にも、一言の非難を浴びていないのは、日本人だけである。」と記しています。

籠城戦の総指揮官で後に初代駐日イギリス公使・大使となり、枢密顧問官となったサー・クロード・マックスウェル・マクドナルドは「日本人こそ最高の勇気と不屈の闘志、類稀なる知性と行動力を示した、素晴らしき英雄たちである。彼らのそうした民族的本質は国際社会の称賛に値するものであり、今後世界において重要な役割を担うと確信している。とりわけ日本の指揮官だった柴五郎陸軍砲兵中佐の冷静沈着にして頭脳明晰なリーダーシップ、彼に率いられた日本兵士らの忠誠心と勇敢さ、礼儀正しさは特筆に値する。十一か国のなかで、日本は真の意味での規範であり筆頭であった。私は日本人に対し、ここに深い敬意を示すものである。」と公式の場で表明しました。柴五郎、“コロネル・シバ”の名声は世界に知られるようになり、当時世界で最も有名な日本人と言われました。1902年にその後の日露戦争にも大きな影響があった日英同盟が締結されますが、マクドナルドを始めとしたイギリス人の日本人への高い評価が、日英同盟の大きな後押しとなったとされています。柴五郎にはそのような意図は全くなかったでしょうが、彼の行動は世界を変えました。

では、柴五郎はどのような人だったでしょう。柴五郎は1860年に会津藩士柴佐多蔵の5男6女の5男として生まれました。柴家は長きにわたって会津藩の世臣をつとめ、佐多蔵は280石の御物頭をつとめていました。厳格な父親と母の愛情を一身受け、仲のよい兄弟姉妹の中で育てられました。会津の教え「年長者の言うことを聴かねばなりませぬ。年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ。嘘を言うてはなりませぬ。卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ。弱い者をいじめてはなりませぬ。戸外で物を食べてはなりませぬ。戸外で婦人と言葉を交わしてはなりませぬ。ならぬことはなりませぬ。」という会津の教えを守り、地域の仲間と共に幸せに過ごしていました。

五郎が10歳の時に事態は一変します。戊申戦争がおこり、西軍は会津に殺到します。白虎隊の悲劇がおこる会津戦争です。その中で戦場の男たちの足手まといになってはならぬと五郎の祖母、母、嫂、姉、妹は自刃します。幼かった五郎は柴家の未来を託され、親戚の家へきのこを取りに行っておいでと逃がされます。その後、戊辰戦争で領地を没収された会津藩は再興は許されたものの、下北半島の極寒の地、斗南藩に移封、追いやられます。父親と兄嫁、そして五郎の生活が始まりますが、住まいは掘っ立て小屋で布団すらなく、屋内の囲炉裏端でさえ夜は零下十度以下という過酷な環境の中で凍死を避けるために家族が身を寄せて眠るしかなかったそうです。その土地は極寒だけではなく、痩せた火山灰地で食物の採れる場所ではなく、飢餓とも戦うことになります。会津藩は30万石あった禄高が斗南藩となり3万石に減らされ、実収は7000石しかなかったといいます。皆が飢えることになるのは当然の結果でした。五郎自身が記した記録が残っています。『その男、犬の死体を曳ききたり、納屋にて解体、半分を持ちて去れり。その日より毎日犬の肉を喰らう。初めは美味しと感じたるも、調味料なく、塩にて煮たるばかりなり。しかも大犬のことなれば父と余が毎日喰らいてもなかなか征服できず。兄嫁は気味悪がりて最初より箸もつけず。余にとりては、これ副食物ならず、主食不足の補いなれば、無理して喰らえども、ついに喉につかえて通らず。口中に含みたるまま吐気を催すまでになれり。この様を見て父上余を叱る。「武士の子たるを忘れしか。戦場にありて兵糧なければ犬猫なりともこれを喰らいて戦うものぞ。ことに今回は賊軍に追われて辺地にきたれるなり。会津の武士ども餓死して果てたるよと、薩長の下郎ともに笑わるるはのちの世までの恥辱なり。ここは戦場なるぞ、会津の国辱雪ぐまでは戦場なるぞ」』(ある明治人の記録 石光真人編著)。

その後、五郎は様々な人のお世話になりながら、陸軍幼年学校に入学します。五郎は幼年学校の2期生で同級生には日露戦争での活躍が有名な秋山好古がいました。その頃教官はすべてフランス人で授業もフランス語で行われており、フランス語を徹底的に鍛えられます。卒業後はアメリカで陸軍武官として米西戦争を見学したり、諜報活動をかねて北京から朝鮮を縦断して日本までの旅をしたりと、フランス語、英語、中国語が堪能となるだけではなく、各国の文化や国民性についても深く学んでいったのだと思います。また、義和団から解放された北京の日本占領地区では柴五郎を責任者として厳格に統治がなされ、日常茶飯事に行われていた暴動、略奪の類は一切なかったとされます。会津戦争の悲惨さを知る五郎ならではの行動ではなかったでしょうか。

帰国後、五郎は宮中に参内、明治天皇の御前で北京籠城の経緯を報告、上奏する栄誉をえました。逆賊のレッテルを張られた会津の国辱を晴らしたともいえるこのことは五郎にとって感慨深いものであったことは想像に難くありません。

北京の籠城戦において五郎が大きな力を発揮できたのには、各国の言葉や文化に精通していたことが関係していることは間違いないと思います。しかしながらそれ以上に、想像を絶する患難の中を生き延び、深い悲しみの経験を胸に秘め、なお前へ進むひたむきさ、そして難事にあたっても武士道を貫く会津魂が重要だったのだと思います。そのことが当時の世界中の人々に感動を与え、100年以上経った今でも私たちの胸を打ち続けます。

群馬大学に奉職し、肝胆膵外科を標榜している私たちは、医療事故のことを忘れることなく、患者さんへの絶え間ない献身的な心とプロ集団として高いレベルの医療を提供できるようひたむきな努力を続けることで皆さんの信頼を取り戻すことができ、その結果必ず道は開けると信じています。そして、そのことは世の中を変えるかもしれませんよ。

参考文献
村上 兵衛:明治人柴五郎大将の生涯 守城の人 光人社NF文庫
石光真人編著:ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書 中公新書
松岡圭祐:黄砂の籠城 (上)(下) 講談社文庫