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教授コラム

教授コラム Vol.35「外科医の父から医師になる息子へのメッセージ2 医療は奉仕」

君の研修はスーパーローテーションでしょう。前にも書いたように私のころはストレート研修だったので、1年目から外科研修医として働きました。残念ながら今の研修については正直言ってよくわからないところがあり、なかなか適切なアドバイスは難しいとも感じます。ただ、ローテーション制なのでどこまで成長するかは本人の自覚によってかなり差が出るだろうと思っています。受け身でいればどこまでも受け身のまま研修を修了してしまうかもしれません。どこに行ってもお客様で終わる研修医もいるらしいですよね。これでは学生実習と変わりません。少なくとも私のころは主治医として逃げ場はありませんでした。

私の研修医1年目は九大病院の古い病棟の中央病棟4階で始まりました。今ではあの古い建物は他に使われ、病棟自体は閉鎖されています。32年前のことになりますが、あの病棟やそこで一緒に働いた人のことは鮮明に覚えています。エレベーターで上がってくれば向かって右に医局やカンファレンスルームがありました。左手は病棟で向かって右に案内所、看護婦詰所、医師の詰所、さらに重症個室と続きます。向かいはリカバリー、そして一般病室がありました。レジデントという言葉はそこに住む人という意味だそうですが、まさに住み込み状態でした。

最初は採血、注射、点滴で苦労しました。あの頃、採血、注射、点滴は看護婦さんは一切行わず、研修医の大切な仕事だったのです。当直明けの朝は全病棟の患者さんの採血を基本的には一人で行わなければいけません。学生の頃は一回も採血の練習などはしたことはなかったのです。患者さんにはご迷惑をかけました。でもたいていの患者さんはじっと我慢してくれていました。朝の採血は50名くらいになったことがあると記憶しています。教授回診の前日はやたら採血が多く、朝5時前に起きて、まず寝ているリカバリーの患者さんを起こして採血を始めます。そうでなければ当直報告のある8時を過ぎても採血が終わりません。点滴は研修医全員で行っていました。それが当たり前だったのです。関連病院ではそれらは看護師さんの仕事ですので、天国のように感じました。1年目を大学で研修をし、2年目に関連病院に出向した研修医が採血・点滴・注射を看護師さんがやってくれるのを見て、先輩の医師に「全部看護婦さんがしてくれるんですね。僕は何をしたらいいんでしょうか?」といったという笑えない話もありました。聞かれた先生は「お前は医師として頭を使うんだ!」と言ったそうです。

また、患者さんを検査などに検査室へ連れて行くことも研修医の仕事でした。夜間の処方も薬剤部へ自分たちで取りに行っていました。夜間の急な輸血が必要なときには輸血部に行ってクロスマッチもやっていました。「これって医者の仕事?」って思いながら、こんなもんだと自分を納得させていました。なんだか、地位的には看護師さんより下だったように思います。

病棟で初めて担当した患者さんは胃癌の患者さんで杉町圭蔵先生が手術をされました。患者さんと共にリカバリーに帰ってきた瞬間、詰所に杉町先生から電話がかかってきました。「○○さんはどう?」、何を言えばよいのか全く分からないので「落ち着いています。」と言ったら、「血圧は?」、「ちょっと待ってください。」、患者さんのベットサイドまで行って血圧を確認、「120/80です。」、「脈拍は?」、「ドレーンは?」、「尿量は?」一回一回ベッドサイドまで行って確認の繰り返しです。汗をかきながらくたくたになりました。でも杉町先生には術後何をみればいいかを直接教えていただきました。いつもそれらを瞬時に確認することが反射のようになりました。

とにかく、仕事が雨あられのように降ってきて、最初の2~3か月は家に帰れませんでした。そうして遅くまで仕事をしていると急患が来て「ちょうどいいところにいた。急患持つ?」という状態でした。どんなに忙しくも勉強のために断ってはいけないと教えられていましたので「はい。」と返事をしていました。先輩に対する返事ははい、かイエスしかなかったのです。でもそのお蔭で半年後には少し医師らしくなりました。その年の夏初めて天神にでて、レコードを買おうかとレコード店に行ったらすべてCDに変わっていて呆然としたことがあります。

手術は一番端っこで3番目、4番目の助手で術野は何も見えず、でも完璧な手術記録を書くことが求められました。手術中に手術の技術のことを教えてもらったことは一度もありません。自分で勉強するものだったのです。研修医が術中に手術のことで質問できる雰囲気ではありませんでした。

夏休みは1週間もらいました。休み自体は気の合う仲間と北海道を車で旅行し楽しかったのですが、研修医が前半後半に分かれて休みをとるため、1週間は担当の患者さんが倍になります。10人程度の担当患者が20人になってしまいます。また、手術に手洗いする研修医が少なくなるので朝から晩まで手術に入ることになります。疲れ果てて病棟に帰ってきたら担当の入院患者が4人入っていたなんてこともありました。寝ていた患者さんを起こし、病歴をとり診察をさせていただき、腹部超音波をやって耳朶採血で血液型を決定、これを入院当日にやらねばなりません。

しかし、今とは違って術前の検査も入院で行われていましたので、術前の入院期間は今に比べれば1~2週間と長かった。だから患者さんとコミュニケーションをとる時間がありました。年配の患者さんからは戦争体験など教えてもらいました。これは大変勉強になりましたし、患者さんと瞬間的に仲良くなれるようになりました。

そんな中にも先輩たちは私たちをかわいがってくれ、「中洲に飲みに行くぞ。」などと誘っていただき、いろんなことを教えてくれました。夜勤明けの看護師さんたちとも明け方まで食事に行ったりしていました。

でも、主治医として自分たちがしっかり患者さんを診ないと患者さんを守れないと必死でした。今では考えられませんが、数日に一回しか患者さんを診に来ないオーベンもいたのです。術前の評価にしても十分注意をしておかないと適切な治療が選択されるのか不安な気がしていました。

そんな中で今でも忘れられない患者さんたちがいます。一人は70代の女性でした。頚部食道癌で喉頭と食道全摘をした後、気管壊死となり頻回に喀痰の吸引が必要になったのですが、吸引は苦しいので調先生にしてほしいと言われ、1~2時間おきに夜も吸引を続けていました。大腸癌末期の40代の女性も忘れられません。その患者さんは実は私が学生の6年生の時の実習の受け持ちの患者さんでした。やさしい患者さんでお互いの家族や個人的なことも含めていろんな話をしていました。その患者さんが腹膜播種で腸閉塞になり緊急入院してきました。私が主治医となりました。そのころは満足な化学療法もなく、ほとんど痛みを和らげる緩和療法しかありませんでした。麻薬も今と違ってモルヒネしかない状況でした。痛みのコントロールのために硬膜外チューブを麻酔科の先生にいれていただき、モルヒネを注入していました。それも頻回となったのですがやはり私に入れてほしいと言われ、夜中も頻回に呼ばれたことを思い出します。注入する時に痛みがあるらしく、私が入れると痛くないと言ってくれたのです。食道癌、大腸癌の患者さん二人とも私がボロボロになっていくのを見て、もう誰がやってもいいよと言ってくれました。大腸癌の患者さんは私が始めて臨終を看取った患者さんでした。子供さん達は、まだ小学校低学年や幼稚園でした。私は最後の時、ご主人、ご家族に囲まれて、ご臨終ですとも満足に言えずただ頭を垂れていたように思います。小さいお子さんたちがお母さんが亡くなったことをどれくらい理解していたかわかりませんが、わっと泣き出して悲しみに包まれる中、いたたまれず病室を後にしたこと今でも鮮明に覚えています。今でいう緩和医療や終末期医療のことを考えさせられました。もう一人の患者さんは40代の男性で五島の漁師さんでした。B型肝炎のキャリアで肝癌の再発で再切除を行って肝不全になった患者さんでした。肝部分切除を行ったのですが切除に先行してマイクロウェーブで焼灼して切除を行っていましたが、総胆管が嚢状に拡張し、胆汁うっ滞性の肝不全を起こしていました。前回の切除の際に金属製のクリップが残っており、これに熱が伝わったのではないかということでした。救命する方法がわからない中、基本的には肝移植しかないということでしたが、その当時肝移植は我が国では不可能でした。肝内胆管の拡張はなかったので胆管の穿刺が難しいことはわかっていたのですが、胆管のドレナージができたら可能性はあるかもということで、再開腹による胆道ドレナージを予定しました。研修医の分際で、「助けるために他に方法はないんですよね。」と勝手に先輩の先生方の予定を確認し、術前の検査をすすめて手術を予定しました。でも先輩たちは私の思う通りに進めさせてくれました。今思えば、先輩たちの度量の大きさに感謝の気持ちでいっぱいです。そうでなければ生意気な研修医だった私はどっかに飛び出していたかもしれません。再手術では結局何度肝臓を穿刺しても胆管には刺さらず、「もうやめよう」と言われるまで穿刺したことを思い出します。最終的には肝不全でこの患者さんは亡くなったのですが、奥様に「肝移植しかご主人を救命できない。」と説明すると奥様が泣き崩れたことを今もはっきりと覚えています。いつか日本でも肝移植ができるようになってほしいと思いました。

当時無力な研修医であった私は患者さんたちに寄り添うしかなかった。そのような中で患者さんを救命するために、あるいは救えなくても外科医としてその心に少しでも応える気持ちの大切さを学びました。まさに医療は奉仕ということを魂に刻み込まれたように思います。今になってもこれらの患者さん達のことは折に触れ思い出します。

医師になった最初の1年間のことを考えると、心がざわざわする、なんとも言えず切ない気持ちになります。私の中に30年以上経った今でも鮮明な記憶として残っています。まだまだ、いろんなことがあり、とても書ききれないのですが、この1年間の経験が学生から外科医としての第一歩を踏み出させてくれたことは間違いありません。

医師になって最初の1年目は大切です。私が過ごした医師の最初の1年は今思えば決して効率的に外科医を育成するプログラムではなかったけれど、強烈な体験でした。外科医としての手術の技術習得はともかく、患者さんに対する責任感や患者さんのためにすべてを尽くす奉仕の精神と患者さんとのコミュニケーションの取り方や思いやりの大切さを学んだように思います。それは患者さんに手術という大きな侵襲を加える外科医としての覚悟であったように思いますし、この1年の経験があったからその後の外科医人生を乗り切れてきたのだと確信しています。

君にはまず研修に主体的に取り組むこと、patient first、患者さん第一、その心構えで死力を尽くす、そのような医師としての姿勢を是非身に着けてほしいと思います。