学生の時の勉強は知識を詰め込むことがほとんどだったように記憶しています。とくに医学部では試験前にぎりぎり暗記力にものを言わせて丸暗記したことが多かった。それ以前の学校の勉強も問題には常に正解があったはずです。ところが医者になり、社会にでれば答えがあることの方が少ないことに気づくでしょう。専門医の試験などであれば問題が用意され、正解があります。でも実際に患者さんを目の前にすれば、全く違うことがわかるでしょう。
君はガイドラインを見たことがあるでしょうか。患者さんの治療方針を決定する際にとても役に立ちます。当然その疾患の患者さんを担当するなら、知っておいてほしい。ただし、そこに書いてあることが目の前の患者さんに当てはまるかというと例外も多いのです。ガイドラインは臨床試験で作られたエビデンスなどに基づいて作られています。これはとても大切なことです。臨床試験のうちでも最も価値が高いとされるのは無作為の比較試験です。すなわち、治療法の優劣を前向きに無作為に登録して比較しようというものです。そのような場合、治療法の効果の違いを出すためにはなるべく均質な集団を対象にする必要があります。本来、ひとりの人に二つの治療を行い、比較ができれば早いのですが、当然のことながらそれはできません。また、薬効を際立たせるためにはなるべく均質な人の集団を選択する必要があります。いきおい全身状態の良い人が選ばれますし、年齢制限もあったりします。例えばあなたの目の前に元気のない90歳の患者さんがいるとして、その患者さんにガイドラインのすすめる治療を行うかと言えば、これは違う場合も多いのです。ガイドラインの内容をよく吟味して考え、その背景を知り、自分の中に落とし込んで初めて臨床の場に応用できるということでしょう。
クリニカル・パスという言葉を聞いたことがあるでしょう。例えばある手術をする患者さんの検査や管理法をあらかじめ決めておいて明文化し、医療の無駄を省き、さらにその質を評価しようというものです。例えば抗生剤は術後何日間投与、種類もあらかじめ決めておくわけです。また、このパスを適応して退院までに至った頻度を持って完遂率をだし、医療の質を評価するわけです。元々工場などで製品の製造過程を細かく分析し、エラーを最小限にする目的で作られたものが医療に応用されていると聞いています。これが適応されることは省力化の意味でよいと思うのですが、時々完遂できなかった患者さんに対して冷たい響きを感じることがあります。肝に銘じてほしいのは、パスがうまくいかなかった患者さんのことが大切であるということです。なぜうまくいかなかったのか、要因はなにか、改善の余地はあるか、むしろそのようなことに常に目を向けてほしいと思います。
ガイドラインにこう書いている、パスはこうなっている、ということを根拠に患者さんの治療方針を決めようとする若い医師は多いと思います。確かに、それは大切な態度だと思います。しかしながら、そのことはなぜそのような記載になっているのかを考える必要はあります。背景の臨床試験はなにか。明確なエビデンスはあるのか。そのエビデンスは目の前の患者さんに適応できるのか?そのようなことを知り、考えた上で患者さんに適応する必要があります。
さらに大切なことは自分で問題を探し出すことです。目の前の患者さんの経過はこれでいいのか?よくなければどうすればよいのか。些細な疑問をそのままにしないで、納得するまで追求すること、これが最も大切です。今はインターネットが発達して、PUBMEDや医中誌などのサイト簡単にアクセスすることができます。若い先生に聞くと、「内科は大丈夫っていいました。」「キャンサーボードで決まりました。」「何とか先生がこう言いました。」これではガイドライン、パス以前の問題です。いずれも「思考停止」に陥ってしまっている。思考停止はよく桑野博行先生が使われていた言葉です。このような態度では何年経っても自分の考えはできないし、成長はしないでしょう。これでは患者さんに納得していただく説明はできないと思います。
「一見平凡に見える患者さんにいかに医学的な光をあてられるか、それこそが医師の力量だ。」と先輩に教えられました。また、「一人患者さんを手術したら、一本論文を書きなさい。」と言われました。これはちょっと無茶な話ですが、それほど一例一例を深く掘り下げなさいということだったと思います。
「何とか先生が言った。」ということでいろんなことを決めることは楽ですけれど、ある意味医師の責任を放棄しているし、いくら患者さんをみてもその人の成長は限られています。ガイドラインに頼りすぎること、誰かの意見をそのまま受け入れること、全く違うレベルではありますが、考えることを放棄しているという面では似ています。考え続けること、つねに考え続けること、そこに医療の醍醐味があると私は思います。