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教授コラム

教授コラム Vol.53「去稚心」

今年も入学式の季節がやってきます。自分の入学式に関しては、小中高、大学とたくさんの式に出席してきたはずなのにあまり記憶がないのです。今も覚えているのは中学の入学式の後に行われた最初のホームルームです。私が入学したのは長崎大学教育学部附属中学校でした。もう46年前のことです。

担任は山崎滋夫先生、社会の先生で澄んだ目をした、生徒からの人気が高い先生でした。ホームルームの最初に、山崎先生が綺麗な字で「稚心を去れ」という言葉を白いチョークで黒板に大書されたことを今でも鮮明に覚えています。その時は自立心を持てということかなあと勝手に解釈していました。でもなぜかとても心に残った言葉です。

今から2~3年前、橋本左内という幕末の活動家が書いた「啓発録」という本を読んだとき、この言葉を見つけました。左内が1848年、15歳、元服を機会に著した本です。全く不勉強で恥じ入るばかりですが、私は40年以上たって初めてその言葉の出典を知ったことになります。ああ、山崎先生、橋本左内の言葉を教えてくれたんだと思いました。

橋本左内は1834年幕末の越前の国に生まれました。元々福井藩の藩医の家に生まれ、啓発録を書いた翌年には大阪の緒方洪庵が主催する適塾に留学して蘭方医学を学びました。その後、水戸藩の藤田東湖、薩摩藩の西郷吉之助、小浜藩の梅田雲浜、熊本藩の横井小楠らなど、一流の知識人と交流するうちに時勢を憂う気持ちが強くなり、医学を離れ、御書院番に転じることを許されました。その後は藩主の松平春嶽(慶永)に側近として登用され、藩主の側近として藩政の改革に力を尽くしました。

藩外の政治活動に本格的にデビューしたのは徳川幕府14代将軍を巡る将軍継嗣問題でした。左内は春嶽を助け一橋慶喜擁立運動を展開し、幕政の改革を訴えました。英明の将軍の下、雄藩連合での幕藩体制を取った上で、積極的に西欧の先進技術の導入・対外貿易を行うことを構想していました。またロシアとの同盟を提唱し、帝国主義と地政学の観点から日本の安全保障を弁じた先覚者と考えられています。橋本左内は当時の混乱した世相の中で日本のあるべき姿に明確なビジョンを持っていたと思います。

徳川幕府の「将軍継嗣問題」では薩摩藩主・島津斉彬、越前藩主・松平春嶽など当時賢侯と呼ばれた大名は、一橋家の当主・一橋慶喜(後の徳川慶喜)に白羽の矢を立て、彼に跡を継がせるべく、運動を始めました。しかし、それに対抗し、紀州藩主の徳川慶福を跡継ぎにしようとする運動が、紀州藩の水野忠央を中心に開始されたのです。慶喜を擁立する一橋派と慶福を擁立する紀州派は、互いに各方面で激しい運動を展開しました。一橋派の中心人物であった慶永は左内を懐刀として使い、奔走させました。しかし、その運動は井伊直弼によって阻まれました。安政5(1858)年4月に大老に就任した井伊直弼は、紀州藩の慶福を家定の世継ぎに決定し、一橋派を一斉に処罰しました。これが「安政の大獄」です。左内は、安政6(1859)年10月7日、江戸幕府への政治的介入を理由に死罪を命ぜられ、斬刑に処せられました。橋本左内、享年25歳、早過ぎる死でした。

15歳の橋本左内が自らを奮い立たせるために書いた「啓発録」は志を遂げんとする決意に満ちています。その言葉は書かれてから160年以上経った今も輝きを失っていません。今年も外科医を志して群馬大学総合外科学の門を叩いた若者たちがいます。初期研修を終了し外科医としてのprofessionalismを確立して、スケールの大きな外科医として育ってほしい若者たちです。佐内のような強い思いと迫力を持って第一歩を踏み出してほしいという気持ちで私は「稚心を去れ」という言葉と啓発録を若者たちに紹介したいと思います。

引用文献