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教授コラム

教授コラム Vol.58「アジアのアルカディア 米沢の奇跡」(令和6年7月21日改訂)

イザベラ・バードは19世紀のイギリスの旅行家です。世界中を旅し、様々な記録を残しています。1878年東京を起点に日光から新潟、日本海側から北海道に至る旅をしています。当時は明治11年、この地方に西洋人が足を踏み入れたことはなく、旅行記である『日本奥地紀行』は当時の日本を知ることのできる貴重な記録となっています。その中でイザベラ・バードは旧米沢領置賜(おきたま)盆地を晴れやかで豊かな大地、養蚕などの盛んな産業、それによる裕福な美しい農村集落、勤勉な農民、手入れが行き届いた見事な農地の景観と称え、ギリシャ神話の理想郷、アルカディアに例えたのです。

江戸時代、全国いずれの藩も財政的にひっ迫していました。特に米沢藩は様々な理由でその禄高を120万石から15万石まで減じられたのですが、藩士を減らすことはなく全国的にも有名な貧乏藩だったといいます。結局、収入が8分の1にもかかわらず、支出は変わらなかった。上杉家は名家としての格式を重んじ、お金を浪費し続け、お金は底をつきお金の貸し手の商人からも完全に見放された状況であったそうです。

そのような中で米沢藩の農民の暮らしぶりはどのようなものだったでしょうか?15万石への減封の直後には農民から悲惨な状況を訴える訴状がでています(寛文目安)。年貢・諸役の過度な増徴が35万石分にも相当すること、藩の特産品であった青苧の荷造り人足や一日1000人の普請人足の徴発で農作業に支障をきたしていること、物品販売や製造業への不当な課税、完納するまで妻子を雪中につなぎおくなどの厳しい年貢の取り立て、それにより1000人以上の百姓が田地・家財を売り払い潰れたといった状況が記された訴状が残されています。潰百姓は破産した農民で、田地を手放し、離村して無宿人として都市に流入するなど治安上の問題ともなったとされています。そこには生き延びることに精一杯な百姓と荒廃した農村の状況が読み取れます。多くの藩主はこのように藩の財政がひっ迫すれば農民から厳しく年貢を取り立てることを考えたのでしょう。

貧困で荒廃した農村をアルカディアに変えたのは第9代米沢藩主上杉治憲(鷹山)といわれています。鷹山は1822年に逝去していますのでイザベラ・バードの置賜盆地訪問は死後50年以上経ってからということになります。50年以上、鷹山の影響が及んでいるのは凄いことですよね。

アメリカの第35代大統領を務めたジョン・F・ケネディは日本人記者団から「貴方が日本で最も尊敬する政治家は誰ですか」と問われ、「ウエスギヨウザン」と答えたと言われます。残念ながら、日本人記者団にはその人を知る人はいなかったとされています。
その話は長い間真偽が不明だったのですが、最近ジョン・F・ケネディの長女で駐日大使を務めたキャロライン・ケネディさんは「父は鷹山を尊敬していた」と述べています。ただ、未だジョン・F・ケネディと日本人記者団の会見の話の真偽のほどは明らかではありません。

なぜ米沢藩では荒廃した農村が立ち直り、50年後も豊かな理想郷としてあり続けることができたのでしょうか。鷹山が次の君主である上杉治広に君主の心構えを説いた「伝国の辞」が伝えられています。「一.国家は先祖より子孫に伝へ候国家にして、我私すべき物には無之候。一.人民は国家に属したる人民にして我私すべき物には無之候、一.国家人民の為に立たる君にして、君の為に立たる国家人民には無之候」というものです。人民のために君主は存在すると言い切っている、このような思想が江戸時代に存在したことは奇跡のように感じられます。伝国の辞の根底には「富国利民」の理念がありました。国を富ませ、民を利する、その先に国家の繫栄があるという考え方だと思います。また、鷹山が民衆を愛し、近しく接したという沢山のエピソードが残されています。江戸時代にこの様に民衆のことを思いやり、民衆に寄り添って改革を進めた藩主が他にいたでしょうか。

鷹山は元々上杉家の血筋ではなく、九州日向(宮崎県)高鍋の秋月という小藩の子供として生まれます。縁あって上杉家の養子に8歳の時に迎えられ、17歳で藩主の座に就任します。名家上杉家の世継ぎとして小藩の出身であることから、様々な点で理解されず、侮られもし、自らが受け入れられるのに大変苦労したようです。質素な暮らしをしようとしても上杉家の格式に則っていない等々の数々の批判を浴びます。そのような厳しい環境の中ではありましたが、鷹山は幼少のころから明君となるべく帝王学を指南されたのだろうと思われます。心ある家臣団やお抱えの学者から仁政を行う君主とはかくあるべきという指導を徹底的に受けたのではないでしょうか。お城の中で藩主としてちやほや育てられた世間知らずの藩主が人民の暮らしぶりのことに思いをはせることは不可能のように思えます。実際、上杉家に召し抱えられた学者である細川平洲は鷹山に「治者は民の父母であれ」と教えたそうです。一方で鷹山は自らを機関、組織の一部ということでしょうか、と考えていた節があるようです。正に家臣団と共に改革を進めていったことを示しているのでしょう。

しかしながら、それだけでは改革はうまくいかなかったのではないかと思います。上杉家には姫がいて、鷹山は結婚しますが、この姫は心身障碍者であったそうです。鷹山はこの姫にやさしく接し、心を通わせたとのことです。家臣団や学者からの教えを素直に吸収する聡明さや心の優しさが改革の実践には欠くことはできなかったと思います。明君として期待される君主像を求める教育や元々の素質を基に、鷹山は家臣たちと次々に起こってくる困難を乗り越え改革を成功させます。その道のりは決して平坦なものではありませんでした。米沢藩の改革は優れた家臣団による富国の施策と民を思う鷹山の人間性によってなしえた奇跡のように思えます。優れた理念とその継続的な実践が50年以上米沢藩をアルカディアとしたのだと思います。

「為せば成る。為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」
この言葉も鷹山の言葉と伝わっています。財政窮乏にあって、自らの膳は一汁一菜、服は木綿を着て倹約に努め、それを貫いたと言います。上杉鷹山は意思の強さや強い思いも兼ね備えていたのでしょう。人の上に立つものかくあるべし、ぜひその生涯を学んでいただければと思います。

参考文献

漆の実る国(上)、(下) 藤沢周平 文春文庫
上杉鷹山 「富国安民」の政治 小関悠一郎 岩波新書
上杉鷹山の経営学 童門冬二 PHP文庫
上杉鷹山の師 細井平洲 童門冬二 集英社文庫