「忘れな草」は私の祖父 調来助が編集発刊した本です。昭和20年8月に投下された原爆で命を落とした長崎医大の学生達のご遺族の寄稿集です。祖父の家にあったこの本を子供のころ繰り返し読み、未来を託していた子供さんを亡くした親御さんたちの悲しみに読むたびに言葉を失っていました。祖父はその小冊子の命名の経緯を以下のように述べています。
“私はその小冊子を「忘れな草」と命名したが、漢字で書けば「勿忘草」、英語ではforget-me-not、新版世界大百科事典を繙くと、この草は春から夏にかけて藍青の可愛らしい花をつけ、花言葉は「真の愛」とのことである。原爆の犠牲となった我が子、我が兄弟を忘れず、真の愛の心をもって永く冥福を祈るという意味で命名したと思う。”
私は叔父二人を長崎の原爆で亡くしたことになりますが、戦争によって他にも多くの前途有望な若者が未来を絶たれました。調精一、弘治の二人の叔父とは会ったことはありませんが、十七歳、十八歳で亡くなってしまったことは残念でなりません。
8月になると毎年手に取ってしまう本があります。半藤一利氏による「日本のいちばん長い日」です。太平洋戦争終結に向けた連合軍のポツダム宣言は昭和20年7月26日に日本政府に対して提示されました。その7月26日から8月15日の終戦に向けての日本政府の動きについて書かれた本です。
いつのころからか、私はなぜ日本はもっと早く終戦を決断できなかったのか?怒りに似た気持ちを覚えるようになりました。勝ち目のない戦いの中で、もっと早く終戦をしていればよかったのではないか。7月26日のポツダム宣言から8月15日の終戦まで、たった3週間弱の間ですが、8月6日の広島原爆、9日のソ連の宣戦布告、同日の長崎原爆、と多くの日本人が戦火に倒れることになりました。2つの原爆だけでも20万人以上の命が失われたのです。少なくとも8月の初めに終戦を迎えていれば多くの日本人は命を落とすことはなかった。また、肉親を原爆で失った人たちはそれから1週間後の終戦にどんな気持ちだったのでしょうか。
「日本のいちばん長い日」はそのような疑問に答えてくれます。時の首相は鈴木貫太郎、77歳で昭和20年4月に内閣総理大臣に就任しています。あくまで辞退の言葉を繰りかえす鈴木に対して「鈴木の心境はよくわかる。しかし、この重大なときにあたって、もうほかに人はいない。頼むからどうか曲げて承知してもらいたい」という昭和天皇のお言葉があり、総理大臣に就任したそうです。この時から2人の頭には戦争終結に対する意識があったものと思います。
当時、軍部は徹底抗戦、本土決戦を主張しており、勝てないまでも本土決戦で連合軍に大きな犠牲を強いることで、戦争を有利な条件で終結させようとしていました。その結果ポツダム宣言に対しても政府は“静観”との反応でした。新聞各紙も「聖戦を飽くまで完遂」などの戦意昂揚を目的とした報道を行いました。陸軍を代表とした阿南惟幾陸相が辞表を提出すれば内閣が瓦解し、総辞職となる難しい局面でした。日ソ中立条約が1946年春までは有効であったために、日本は水面下で和平への仲介をソ連に依頼していました。ポツダム宣言にスターリンの署名がなかったことから、日本はソ連の仲介に期待を寄せていました。しかし、1945年2月のヤルタ会談でスターリンはルーズベルト米国大統領に、ヨーロッパ戦線が集結したら、満州・千島列島・樺太に侵攻すると述べていたそうです。
広島の原爆投下を受けて、8月8日に天皇は東郷外相に「このような武器がつかわれるようになっては、もうこれ以上、戦争をつづけることはできない。不可能である。有利な条件を得ようとして大切な時期を失ってはならぬ。なるべくすみやかに戦争を終結するように努力せよ。このことを木戸内大臣、鈴木首相にも伝えよ」といっています。
8月9日には最高戦争指導者会議が開催され、鈴木首相のポツダム宣言を受諾し、戦争を終結すべしとの発言を受けて議論がなされますが、国体護持(天皇制の継続)という条件を巡って結論がでず、御前会議に持ち込まれます。当日の深夜に行われた天皇の前で行われた会議でも結論がでず、日をまたぎ10日になったころ、鈴木首相が天皇の御聖断を仰ぎました。天皇は終戦への強い意志を示しました。過去の様々な経験から平時「君臨すれども統治せず」の立憲君主の立場を忠実に採っていた天皇が、政府機能の麻痺に直面して、自らの意思を述べたともいえるでしょう。
しかしながら、陸軍軍部は国体護持に関して無条件降伏を承諾せず、一部の陸軍若手幹部はクーデターまで計画していました。14日午前、再度の御前会議が開かれ、天皇の発言は以下のごとくでした。「このさい、自分のできることはなんでもする。国民はいまなにも知らないでいるのだから、とつぜんこのことを聞いたらさだめし動揺すると思うが、自分が国民に呼びかけることがよければ、いつでもマイクの前にも立つ。ことに陸海軍将兵は非常に動揺するだろう。陸海軍大臣がもし必要だというのならば、自分はどこへでもでかけて親しく説きさとしてもよい。」これによって終戦は決定しました。
終戦詔書が作成され、翌8月15日正午の「堪え難きを堪へ、忍び難きを忍び」という玉音放送となります。しかしながら、14日の夜、降伏を受け入れられない若い陸軍将兵が決起し、宮中の警備を担当する近衛軍団を一時掌握したクーデターが起きます。彼らは玉音放送を中止させようと天皇の終戦詔書が録音された録音盤を奪取しようとしますが、見つけ出せずクーデターは失敗に終わります。最後まで徹底抗戦を主張する陸軍の突き上げに堪えクーデターを抑え込み、内閣総辞職を招く辞職をせず、終戦を受け入れた阿南惟幾陸相は割腹にて自決します。このように8月15日の終戦はぎりぎりの選択であったことがわかりました。今からみれば、このような大きな国民の犠牲を目の当たりにしてもなお戦争継続を主張した当時の軍部は狂気としかみえません。しかしながら、終戦受諾のタイミングが早すぎれば狂信的な一部軍人によるクーデターや陸相の辞任による内閣総辞職を招き、さらに終戦は遅れた可能性があると思います。一方、アメリカでは第3、第4の原爆の投下がすでに計画されていたとのこと、さらに終戦が遅れればソ連侵攻は北海道本島まで及んだ可能性もあるでしょう。8月15日の終戦は日本が再興できる最後のタイミングだったような気がします。この間の国民の犠牲は決して許されることではありません。しかしながら、歴史の流れの中ではこれらの尊い国民の犠牲があって日本の再興への道が残されたのだと思いたい。そして、犠牲になった人々のことを決して忘れないと強く感じています。
なお、首相として終戦を主導した鈴木貫太郎は所謂政治力はゼロの人でしたが、無私無我の精神の人であったと半藤一利氏は述べています。鈴木貫太郎は私の住む前橋市の中心に位置する前橋市立桃井小学校の前身である厩橋小学校の卒業で貫太郎の「正直に腹を立てずに撓(たゆ)まず励め」は学校の教訓として今も残されています。