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教授コラム

教授コラム Vol.18「The making of a surgeon」

ウィリアム ノレン先生は1928年生まれで1986年に亡くなった外科医です。彼は自らの外科レジデントとしての経験を”The making of a surgeon(外科医の誕生)“という本にし、ベストセラーになりました。

私は医学部の学生の頃、父の本棚にあったこの本を勝手に拝借し、読んで感動したことを昨日のことのように覚えています。残念ながら、その本はどこに行ったかわからなくなってしまったのですが、絶版になっている本を最近ネットで購入し、30年ぶりに読んで改めて感動を受けました(社会保険新報社、横山邦幸 訳)。50年以上前の外科医の成長の物語ですが、そこには外科医に関する普遍的な真理が語られていると思います。

ノレン先生はニューヨークのベルヴュー病院で5年間のレジデント生活の後、一人前の外科医となっていきます。本を読む限り、ノレン先生のレジデンシーがいつ行われたのかは記載がないのですが、おそらく1950年代の半ばかと思います。心臓外科がまだ始まったばかりの時代です。

当時のベルビュー病院はまさに野戦病院でした。患者さんとしてはニューヨークの麻薬中毒者、寒さを避けるために入院するために手術を受けたがるホームレスなど、貧しい人たちばかりが集まる病院です。

血色素や検尿をしてくれる検査技師はいないのでは自分で計る、検査室にはしばしば検尿の試薬がないので遠くの内科検査室まで行って自分で尿検査をする。レントゲンはいつも紛失され、それを探して回るのに一日仕事、抜糸はワゴンにはさみがあればぞうさないことであるが、もしなければ次の日まで伸ばさなければならない。そんな劣悪な労働環境の中でノレン先生はレジデントとして最善を尽くし、奮闘します。

最初にやった虫垂切除の手術ではなかなか開腹にいたらず、先輩の手伝いでやっと開腹できたものの、どうしても虫垂を手術創にだすことができず、「この虫垂突起は異常な場所にあるに違いない。私にはみつけられそうにない。」と指導してくれた先輩に泣きつきます。その後前立をしてくれた先輩は5秒後には盲腸を探り出したなど、少し恥ずかしいエピソードも正直に紹介されています。

当時、レジデントのdutyとして隔日の当直と隔週末の日当直があったといいます。また、ある日のこと48時間一睡もせず、診療を続けたことを記しています。40時間もたつと、私は疲れ果てた。今でも思い出すが、看護婦詰所に座りながらコーヒーを飲み、カルテの記載をしていた時、電話が鳴った。救急外来で私を探しているに違いないと思った。受話器を取り上げた時、私は急にー殆どヒステリックに笑い出した。所謂、「こわれてしまった」のでしょう。今ではアメリカでもレジデントの過重労働により、医療事故が増加するという理由で、労働時間が法的に厳しく規制されたようです。

アメリカのレジデント制では最後の年には1人だけが残り、チーフレジデントとなります。他の人たちは他の病院のプログラムへ移動したり、外科医をあきらめたりという激烈なサバイバルゲームに生き残った者だけがチーフレジデントとなります。そのようなシステムの中で、サバイブするためには想像もつかない努力を払っていたのだと思います。

ノレン先生は看護婦さんとの素敵なエピソードを紹介しています。病棟師長のシャロンは優秀な看護師でした。ノレン先生は患者の包帯交換の時、手伝ってくれていたシャロンに「鋏を貸して」と頼みます。でもシャロンは拒絶します。本当に鋏はベルビューではダイヤのようであった。皆にいきわたってはいなかった。看護婦にとって鋏を誰かに貸すことは、恋愛関係を認めるようなものだった。「シャロン、あなたの目の前で使うだけで、すぐに返しますから。」「いいえ、使わせることはできません。」シャロンはそう言って、ポケットの中から新品の鋏を取り出して私に渡した。鋏には「ノレン医学博士」と彫られていた。シャロンは「どうぞ、これを持って行ってください。あなたはインターンとしてよくやったわ」と言います。レノン先生はうれしくて泣きそうになったと記しています。このようにノレン先生は医師以外のメディカルスタッフからの信頼を得ていきます。

ノレン先生は過酷な勤務の中で、外科医の卵から彼自身の言葉を借りれば“二本の足で外科の世界に立つことができるまで”成長します。“外科医の誕生”という本にはその成長の過程を包み隠すことなく正直に述べられています。

医師がおかす過ちについてこのような記載があります。すべての医師はいつかは過失を犯すのである。それが医学というものなのだ。医学は厳密な意味では科学ではない。そこにあるのは多様性である。二人の患者は似ておらず、二人の医師は違う。同じ病気の二例のまた同じではない。この多様性のために医学は厳密な意味では科学にならないのである。外科医は正しい診断をつけるだけではなく、手術をすることができるか、直ちにすべきか、どの術式を選択するか、各段階で選択をしなければならない。だから、ある時は明快であり、ある時は歯切れが悪いのである。

たまに我々が失敗をする時、なぜその過失に思いをめぐらせるのか。それは外科医の責任であるからである。胆嚢を手術した最近の二十例について、外科医に尋ねれば、異常なく経過した十九例は全く覚えていないのがふつうである。しかし、手こずった患者については、自分が面倒をみた間のことを細大漏らさず覚えている。間違いをおかしたとすればどこでおかしたのか、自分の責任である合併症―最悪の場合は死―を防ぐためになにをしたのか、何百回ともなく思い返すのである。過ちをおかしたのなら、二度と繰り返したくない、と願うのである。できることなら、この経験から何かを学び取り、将来の患者に役立たせたいのである。しかしながら、我々は必ず過ちをおかす。手術をすべきでないのに手術をし、すべきであるのにしなかった。またしばしば間違った手術をした。適切な手術法を決めたのに時としてまずい手術をした。これらの過ちをわれわれは犯してきた。しかし、大局を誤らなかったので大事に至らないことが多かった。我々は過ちをしないように精一杯頑張った。-過失がないように一つ一つ注意を払い、皆無になるように努力をした。それでも過失は必ずおきる。われわれの過失のために傷ついた患者のために、何百人という患者を助けると誓った。

外科のレジデントは経験の中でたくさんのことを学んでいきます。

レノン先生は言います。外科について五年間も医師として学ぶ必要があるのは何のためであろうか。いうまでもなく、一言でいえば判断を学ぶのである。医師が正しい外科的判断を習得するためには、長い時間と大きな努力が必要である。患者を診るたびに、病歴、身体的所見、血液の化学検査成績、画像、その他のたくさんの資料を頭に入れて考えなければならない。これらを取捨選択して、手術の必要性、術式、手術時期を決めなければならない。

手術室での判断はさらにむずかしく、ここではしばしば自分だけで決定しなければならなかった。もちろん私は神ではなかったが、権力に関する限り、ここでは誰よりも神に近かった。私はその役を果たさなければならなかった。

この外科医誕生の物語はレノン先生がベルビューでのチーフレジデントまで昇進し、レジデンシ―を終えるところで幕を閉じます。

外科医の誕生について、レノン先生はこう言います。外科医は忽然と生まれるものではない。むしろたゆまぬ努力によって日一日と外科医になっていくのである。ひとつの手術をやり終えた後、ひとつの決定をした後、一つの危機にぶち当たったあと、それなりに外科医らしくなっていった、と今になってわかるのである。と。

外科の後期研修医として研修をしている諸君には忙しく、その時には自分が成長していることは実感しにくいと思いますが、真摯に臨床に取り組み、一例一例を大切にしていくことですこしずつみなさんは確実に成長しています。

更に外科医は常にベストの判断の上、ベストの治療を心がけていますが、いつもベストの結果がえられるとは限りません。そのような患者さんを救うために全力を尽くし、なぜそうなったのか、どうすれば患者さんが救命できたのか、その問いに真摯に向かい、何度も反芻し考え続けることが、信頼できる外科医として大成するには必須であることをこの本は教えてくれます。