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教授コラム

教授コラム Vol.43「外科医の父より医師になる息子へのメッセージ10 留学のすすめ」

今年の正月休みは期間が長く、長編の本を読みたくなり、司馬遼太郎の「竜馬が行く」を読みました。今回で3回目になります。「竜馬が行く」は幕末に薩長連合や大政奉還を成就させ、明治政府の成立に大きな力を発揮した坂本龍馬を描いた不朽の名作です。もし君も読んだことがなければ一度是非読んでみてください。

私が「竜馬が行く」を初めて読んだのはアメリカ留学中でした。アメリカ人にいろいろ日本の歴史や文化について聞かれるのですが、自分が何も知らないことに気づき、ずいぶん恥ずかしい思いをしました。留学中司馬遼太郎の作品は乱読しましたし、当時アメリカのビデオショップにあった日本の映画はせいぜい黒沢明とか小津安二郎の監督作品でしたが、アメリカで初めてママと一緒に初めて見たのですよ。

私が留学したのは1990年7月から1992年3月までの1年半でしたが、大学を卒業してから3年数か月で留学したことになります。当時の教授であった杉町圭蔵先生の若いうちに留学した方がよいというご配慮で、初期研修医2年、研究室に入って1年たったころに留学の話をいただきました。どこに行くか皆目見当がつかなかったのですが、当時、研究室で指導をしていただいていた兼松隆之先生にミネソタ大学を推薦していただき留学することができました。当時私は人工肝臓の研究をしていたのですが、ミネソタ大学でも同じ研究が行われており、とんとん拍子に話が進んで7月には留学となりました。貴重な経験をさせていただいたことに杉町、兼松両先生には心から感謝をしています。

ミネソタ大学はミネソタ州ミネアポリスにあります。ミネソタ州はカナダに接しており、北緯は日本の旭川とほぼ同じで全米で最も寒い州として有名です。「雪はいつ降るの?」と聞いたら「8月以外は降ったことがあるなあ。」といわれ、びっくりしました。私が滞在していた間の最低気温は―38度でした。ミシシッピー川を挟んでセントポールという街があり、ミネアポリスと合わせてtwin cityと呼ばれていました。とてもきれいな街でたくさんの湖があり、街の中の湖の周りは散歩道として整備されており、ママとよく散歩しました。アメリカン・フットボールの地元チームはバイキングスでしたが、その名の通り北欧からの移民が多かったので、とってもでっかい白人が多かったと記憶しています。留学中MLBのミネソタ・ツインズが全米一となったのですが、ワールドシリーズを見に行けたのも良い思い出です。今からは想像もつかないと思いますが、当時はネットもメールもなく、周りにはほとんど日本人もいなかったので日本の情報は限られていました。

英語では当初ずいぶん苦労しました。研究室には日本人がおらず毎日英語のシャワーを浴びて半年後にはなんとかなりました。ママからは「寝言を英語で言ってたよ。」と言われたこともあります。最後は英語でものを考えるようになりました。いちいち頭の中で日本語に翻訳していたら会話にはついていけません。相手が冗談を言っても意味が解らずにやにや笑うだけでとても悔しい思いをしましたが、最後には少しは冗談にも対応できるようになりました。その会話力も帰国後30年使うチャンスもあまりなく、すっかり錆びついてしまい、帰国後も勉強を続けておけばよかったと今になって後悔しています。

ミネソタ大学の外科は心臓外科や膵移植で有名なリリハイ兄弟を輩出するなどアメリカの名門です。当時の主任教授はジョン・S・ナジャリアンという先生でしたが、とっても大きな方で威厳がありbig Johnと呼ばれていました。でもカンファレンスでレジデントの若い先生がジョンと呼び捨てにしていたのにはびっくりしました。私は外科で肝移植を行っていたペイン先生の元で、ナイバーグという先生が人工肝臓の研究をしており、その先生の元で研究を行うことになりました。時間があったので、イヌやブタなどの大動物実験を行うdog labでも手術をしました。Dog labは古い病院の手術室にありました。動物の麻酔や手術の助手はテクニシャンが、やってくれていました。予定時間になってラボに行くと、イヌやブタが挿管され、敷布がかかった状態で手術器具もすべて消毒されていつでも手術開始ができるようになっていました。女性のミッキーという主任の他、5~6人いたテクニシャンがおり、みんな親切で人懐っこく、とても仲良くなり冗談を言い合うようになりました。テクニシャンのエリックから「日本人ならヤスを知っているか?」と言われ、ヤスではわからないと答えると、「お前はもぐりじゃないの?」と言われました。「ヤス」の名刺を見せてもらったら、東大の第二外科の教授で第92回日本外科学会を主宰された、確かに日本の外科医であれば当時だれでも知っていた出月康夫先生でした。出月先生が若いころ膵移植の研究でミネソタ大学に留学され、エリックは先生の実験を手伝っていたそうです。ある日最年長のモーリーという黒人のテクニシャンが昔の名札を見せてくれました。その名札にはnegroという黒人を差別する言葉が書かれており、「つい最近までそうだったのさ。」とアメリカの影の部分を教えてくれました。彼は外科の歴史に燦然と輝くリリハイ博士の人工心肺の研究に関わっていたらしく、とても誇らしく語ってくれました。ある日モーリーとたくさんの女性や子供たちと写った記念写真を見せてくれました。写真を指さしながら「これが現在の奥さんと子供、これが前の奥さんと子供、これが前の前の奥さんと子供と孫たち...」私の感覚と違うことに驚きました。

ペイン先生はとても物静かで、理性的な人でした。彼は当時准教授だったと思いますが、彼の広いオフィスには彼担当の秘書がいて、日本とずいぶん待遇が違うなあと思いました。豪華な彼のご自宅に招待されたことがありますが、高級車が2台、地下の広い部屋は子供のプレイルームとのことでした。ある時、実験に使う機械を買いたいとペイン先生のオフィスに交渉に行ったことがあります。そんなに高くない機械でしたので、ペイン先生は「ああ、いいよ。」と一言。ただ、それから「ランニング・コストは?それをメインテナンスするテクニシャンはどうする?」と言われ、結局なしになりました。当時の日本の研究室にはテクニシャンなどはおらず、がんばればなんとかなるとすべて自分たちでやっていました。そのためにある機械を使っていた人が大学院を卒業すると誰も使い方がわからず、そのままになっていることもよくありました。ロジスティックというのでしょうか、こりゃ戦争に負けるわけだわと正直に思いました。

ある時ペイン先生が「アジアにはいいテニス・プレーヤーがいないな。」と言ったので、「マイケル・チャン(今の錦織選手のコーチで当時は大変活躍していた中国系アメリカ人)がいますよ。」というと、ペイン先生にしては珍しくちょっと怖い顔で「チャンはアメリカで生まれ、アメリカの教育を受け、アメリカの市民権を持ち、アメリカに税金を納めているアメリカ人だ。」と言われました。チャンを中国人と言えばいわゆるネイティブ・アメリカンしかアメリカ人はいないわけですよね。一方で当時経済的に日本は日の出の勢いでしたが、それに憧れた日系3世が日本を訪ねると顔は日本人でも日本語が喋れないので散々いじめられ、日本がきらいになって帰ってくると聞いたことがあります。日本人の血が流れていれば日本人と思い、日本人のくせに日本語が喋れなければ下に見てしまう、島国根性だなあと思いました。

Dog labには、いわゆる途上国の医師免許を持っているが、研究の手伝いをしながら、アメリカの医師免許を取得するために渡米してきた若い外科医がたくさんいました。一般に途上国の外科医の社会的地位は低く、メキシコから来たタチュによれば「外科医なの、大変だねえ。」と同情されてしまうと言っていました。だから、みんな絶対にアメリカで外科医になってやるという強い気持ちで来ていました。その中で私はブラジルから来ていたアジュという男の子と特に仲良くなり、自宅に呼んでママに日本料理をふるまってもらったことがあります。その後、彼はめでたくアメリカの国家試験をパスし、10数年たってアメリカの外科学会で再会したことを懐かしく思い出します。

外科のチーフレジデントとも知り合いになりました。大学のカンファレンス・ルームには歴代のチーフレジデントの写真が飾られており、ほとんどが教授になっていました。初年度20名くらいいるレジデントが最終の6年目には一人のチーフレジデントが選ばれる激烈な競争があったと思います。途中で「君は外科より病理があっているかも」とか「○○病院に行ってもらえないか?」などの肩たたきがあると聞きました。ある日チーフレジデントに手術場であったら、「もう3日間手術場から出ていない。死にそうだよ。」とぼやいていました。その間も電話でレジデントに指示を出して、病棟も管理していました。尤も、その後レジデントの過重労働が医療事故の原因として法律で労働時間が制限されるようになったと聞いています。でもあの競争社会は変わっていないでしょう。なぜならそれがアメリカだから。

ある時、医療関係ではないキーン夫妻の自宅に私たち夫婦で招待していただき、夕食を御馳走になり、かわいい子供さんと一緒にゲームをしたことがあります。キーン夫妻は当時30歳代だったでしょうか、知的で上品なお二人でした。二人が住んでいる家はご主人が暇を見つけて自分たちで作っているとのことでした。また御主人は地政学に興味があって大学の大学院に進学しており、「1年毎に会社勤めと大学院を交互にするんだ。」と言っておられ、自由に学問を楽しむという贅沢な環境だなあと思ったことを思い出します。奥様も働いておられ、共働きなので平日の夕食はレンジでチンの冷凍食品ばかりとのこと、「料理が苦手なの。」と言っていました。アメリカにはおふくろの味はないんだろうな、だから、レストランの食事がおいしくないのかなあと想像していました。知的なレベルの高いお二人でしたが、こっそり教えてくれたのは奥の箪笥の引出しにピストルを持っているということでした。「自分たちは自分で守らないと。でも使い方がわからないかも。」と笑っていましたが。

その奥様にして「日本ってどこにあるんだっけ?、日本のイメージはゲイシャ、サムライ?」みたいな感じでした。私が留学していた間、日本のことがニュースになったのは島原の普賢岳の噴火が唯一でした。日本にいるとニューヨークやロスアンゼルスのことがよく出てきますが、実はハートランドといわれるアメリカ中部に住んで、一生その町から出たこともなく外国のことには興味がない、でも善良で保守的な人々がアメリカ国民のサイレント・マジョリティなのではないかと感じました。このような背景を実感すると、アメリカの政治は理解しやすいのかもしれません。

研究室の優秀なアメリカ人、ジョン・クロムウェルとも仲良くなりました。とても素直で真面目な若者でした。寿司が好きというので、奢ったこともあります。怪しげなバーに連れて行ってもらったこともありました。彼の祖父母はイギリスから来たということで、「おじいさん、おばあさんはイギリスのどこの出身で何をしていたの?」と聞くと、苦笑いをしながら「わからない。イギリスにいられない理由があるからアメリカに移住したんだよ。」ということでした。まさに移民の国アメリカ、そして自分たちのルーツさえ分からない、たかが二、三百年という歴史の浅さを実感しました。彼に関しては後日談があります。私が日本に戻って10年も経ってから、ジョン・クロムウェルに関する問い合わせの電話がありました。留学から帰ってからずいぶん経ってからでしたので、暫く誰のことかわかりませんでした。ジョンはその後外科のチーフレジデントになったらしいのですが、問い合わせは「娘がジョンと結婚することになったのだが、どんな人ですか?」という内容でした。私はジョンの人間性や、チーフレジデントになったこと自体成功者であることを説明しました。ジョンがチーフレジデントになったこと、私のことを覚えてくれていたことをうれしく感じたのと共に人と人の出会いの不思議さを思いました。ご夫婦が今も幸せにされていることを心から祈念しています。

留学中研究も充実していました。Dog labやナイバーグ先生との研究に頑張ったことで6編の論文に名前をいれていただき、この時に頑張った研究で学位を取ることになりました。1年半という短い期間ではありましたが、研究だけではなく、色々なことを学びました。アメリカという国のイメージも短いながら仕事・生活をしたので分かった部分もあると思います。成功を夢見て集まった世界中のヒトによる激烈な競争があるが、一方で様々な生き方や人を容認する文化もある。歴史は浅いがゆえに、ドラスティックな変化が起こる可能性を秘めていてそれが強さである一方、弱みにもなるのだろうと思います。ただアメリカの行方は外国のことなど意識したことのない、保守的な人々の声なき声が決めているのかもしれません。

結婚早々渡米したのでママにも苦労をかけましたが、2人で過ごした時間は私にとってかけがえのない時間です。「いつかミネアポリスに行きたいね。」とママと話していますが、そのようなチャンスもなくあっという間に30年が経ってしまいました。人生の最後に過去の記憶が走馬燈のように駆け巡ると言いますが、その時には間違いなくアメリカの抜けるような青空を思い出すだろうと思います。

留学も研究資金の問題など難しい面もでてきていますが、機会があればぜひ君も外国へ留学してください。