今回の第73回日本消化器外科学会は鹿児島大学の夏越祥次教授が主催され、鹿児島で開催されました。素晴らしい学会で記憶に残る学会であったと思います。
鹿児島は明治維新から数えて150年の記念の年で、盛り上がっていました。今回の学会では群馬大学の肝胆膵外科のメンバーの五十嵐隆通君とスケジュールがあったので行動を共にしました。そこで聞きますと五十嵐君の下の名前は“隆通(たかみち)”ですが、お父様が西郷隆盛の“隆”と大久保利通の“通”から名づけられたそうです。素晴らしい名前です。そこで、西郷隆盛と大久保利通について知っているか?と五十嵐君に聞いてみたところ、あまり詳しくは知らなかった様子です。そこで学会の合間を縫って“維新ふるさと館”を訪問することにしました。私自身は、前に一度訪れたことがありましたので、正直なところあまり新たな発見はないかな、今日は五十嵐君に付き合おうと思っていました。ところが、改めて気づいたことがありました。
事実としては知っていましたが、大久保と西郷、この二人はご近所で生まれ育っています。西郷隆盛は明治維新の立役者であり、大久保利通は新生明治政府の要職を務め、日本の基本骨格を作った人です。さらに東郷平八郎、山本権兵衛、大山巌なども同じ町内の鍛冶屋町に生まれ育ったのです。
山本権兵衛は海軍大臣として、大山巌は陸軍大臣として日露戦争を指導し、日本の苦境を救った人々です。東郷平八郎は日露戦争における日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を完膚なきまでに破った連合艦隊の司令官として有名です。もちろん、おそらくそれぞれにお互いによく知り合った仲で、人事上の忖度が働いた可能性もありますが、それぞれに素晴らしい活躍をしたことを考えるとそれだけではないと思います。
これらのことは鹿児島で伝統的に行われてきた郷中(ごうじゅう)教育によるのではないかと推測されています。郷中教育は小さいころから行われてきた“屋根瓦式”教育です。儒教による道徳、歴史、武術などを年長者が年少者を教える制度でした。5、6歳~9歳までを小稚子、10~12、3歳までを長稚子、そのリーダーを稚子頭といい、13歳~24歳ころまでを二才といい、このリーダーを二才頭といい、二才頭は稚子、二才全体の面倒をみていたそうです。郷中教育では年下の者は年上の者を敬い、その言付をよく守り、絶対服従だったそうです。これに対して年上の者は、年下の者の手本になるように行動し、後輩をきびしく指導したそうです。その基本的な教えは、助け合う、守り合う、鍛え合う、みんなで責任を持つということで、うそをいうな、負けるな、弱いものをいじめるなというものでした。そんな中で、大久保や西郷、その他の明治の元勲は育てられたのです。
大久保利通のキャラクターはわかりやすい。大久保は超有能な官僚であり、日本の近代国家としての制度や形を作った偉人だと思います。大久保は徹底したリアリストであったと思いますし、リアリストだったからすごい仕事ができた。
一方、西郷隆盛はとても評価が難しいと司馬遼太郎も述べています。西郷は貧しい家庭に生まれ、実際に農民の厳しい生活ぶりをみ、さらに奄美大島、徳之島や沖永良部島に島流しにあった時の島民の極貧の暮らしぶりや役人の腐敗を見て、激しい憤りを感じていたと思います。こんな制度が許されるはずはないと感じていたのではないでしょうか。そういう思いをベースに討幕運動を進めたのではないかと思います。おそらく西郷は討幕が達成されれば、庶民や農民の暮らしぶりはよくなり、武士道のような考え方がすべての人に広まるような漠然とした期待を持っていたのではないでしょうか。しかしながら、明治維新の達成の後にくるはずだった西郷の理想の社会とは全く違ったものが生まれ、西欧文化や新たな価値観が生まれ、時代の流れに抗することができなかった。そこに西郷隆盛の悲しみがあったのかもしれません。しかしながら、西郷の高潔な人格と弱い者への慈悲はいまだに人を魅了し、引きつけます。ある意味、理想郷を夢見たロマンチストであったのではないかと思います。そのために幕末はあらゆる権謀術策を用いて討幕を完成させたのではないでしょうか。しかし、明治維新以降西南線戦争で生涯を終えるまで、征韓論以外は目立った政治家としての活動はありませんでした。
徹底したリアリストであった大久保利通、ロマンチストであった西郷隆盛、とても対照的な際立った個性であったような気がします。しかしながら確実に言えることは、新生日本のために欠くとことのできなかった二人でした。
今回の鹿児島訪問で改めて強く感じたのは、まったく違う性格と強みを持った二人が近所で生まれ育った不思議でした。そして、二人はこの時期の日本を大きく変えました。二人とも一流の人間として活躍した事実は郷中教育の素晴らしさを示すものかもしれません。その基盤にあった教えはどのようなものだったのでしょうか。
西郷隆盛が残した「西郷南洲手抄言志録」という書があります。これは隆盛が愛読していた佐藤一斎の「言志四録」から隆盛が特に心に響く言葉を選びだしたものです。今回鹿児島の維新ふるさと館で「西郷南洲手抄言志録を読む」(渡邉五郎三郎著)という本を買い求めたところ、教育のところで上杉鷹山の師とされる細井平洲の言葉が引用されていました。「すべて人を教え育てる時に心懸けることは、菊作りの専門家が菊を作るときのようではなくて、百姓が菜大根を作る時のように育てるべきであります。菊を育てることの好きな人が、菊を作る時には、花の形・姿が見事に揃ったものを作ろうとして多くの枝を取り除き、多くの蕾を取り捨て、伸びようとする枝を抑えて、自分の好み通りに咲かない花は、花壇の中に一本もないようにします。百姓が菜大根を作る時には、一本一株も大切に育て、その畑の中には、よく出来たものもあり、よくないものもあって大事に育てて、見栄えの良くない、不揃いなものも食用にできるように育てます。この二つの育て方を知っておかねばなりません。人の才能は一様なものではありませんので、それぞれに特徴があり、取柄があって、それを自分の思い通りの型にはめてしまおうというような頑固なことでは、教えられる方もたまったものではありません。知愚才不才、それぞれの能力相応に育てて世の中に役立つ人間に育てれば宜しいのであって、そのような心構えがない、了見の狭い人は、先生として教育に当てさせることはよくないと存じます。」(嚶鳴館遺草)というものです。西郷隆盛は島流しにときに「嚶鳴館遺草」に出会い、多くのことを学んだといいます。西郷隆盛は「嚶鳴館遺草」を「民を治むるの道はこの一巻を以て足れりとす」と断言したと言われています。細井平洲の時代から幕末まで100年以上が経っていましたが、この考え方は当時の日本に大きな影響を与えていたのでしょう。このような思想を基に、西郷と大久保という全く異なる質を持った偉大な個性は同じ郷中で育まれたのかもしれません。
西郷と大久保が全く異なる個性で活躍したように、私も組織を構成する皆さんの個性を尊重し、個々の強みに基づいた能力を最大限に引き出し、多様性を組織の強みとして発揮すること、そして外科医のリーダーを育成していくことが大切であると改めて感じました。しかしながら、菜大根もただ大根であればいいというわけにはいきません。私たちは外科医として患者さんの要請にしたがってその希望に少しでも応えるべく最大限の努力を払い、最高の技術を発揮することはもちろん大切です。しかし、それだけでは真の意味で期待に応えることはできないでしょう。そこから自分なりに課題を見出し、学び、新たなことを生み出し、克服する努力をする、その経験を次に反映するべく研究という形でまとめていく、私たちはそのことで初めて前に進むことができます。そして立派な菜大根になって患者さんのために役立つ外科医とならねばなりません。西郷と大久保から名前の一字ずつをもらった五十嵐君はどのようなリーダーに育っていくのでしょうか。本当に楽しみです。