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教授コラム

教授コラム Vol.64「小さくともささやかでも珠玉のごときものにつくりあげたい。」

井口潔先生は昨年9月に99歳でご逝去されました。九州大学第二外科(現消化器・総合外科)の第5代の教授としてご活躍された偉大な外科医であり、教育者でありました。

もう4~5年前になるでしょうか。私に井口先生から電話がかかってきました。第7代目の教授でいらっしゃった前原喜彦先生の退官記念の業績集に原稿を書いてほしいと言われたのだが、前原君の業績の詳細を知りたいので群馬に行くからとおっしゃるのです。もう95歳を超えていたと思います。先生は飛行機がお嫌いで新幹線で博多から群馬まではたいへんな旅程です。「先生、私が福岡に参りますから。」と再三申し上げましたが、「いや、そんなわけにはいかん。私が聞きたいのだから私が行きます。」とおっしゃいます。結局、当時群馬大学の教授でいらっしゃった桑野博行先生と共にお迎えしました。前原先生のお話はもちろん、教育や昔の話になりましたのでそのことも含めてお話したかったのかなあと思いました。ただ、「前橋では中村卓次先生が日本消化器外科学会を主催された。」など、記憶の正確さにびっくりしたことを覚えています。

また、井口先生のことはこのコラムの中のVol 32でも触れさせていただいております。
私が井口潔先生のお名前を初めて聞いたのは、私が九州大学に入学した昭和50年(1980年)の夏のことでした。入学後初めて長崎に帰省し、祖父(長崎大学名誉教授)の家を訪問し、その時祖父の口からであったと記憶しています。祖父も長崎大学を退官して15年ほど経っていたと思いますが、「お前が九大に入ったので、井口潔君によろしくたのむと手紙を書いておいた。井口君も本当を言うといい人らしいんだよ。」私は入学したばかりで医学部にも行ったことはなく、その意味も図りかねて「はあ。ありがとうございます。」と生返事だったと思います。本当はいい人ってどういうこと???って正直思いました。祖父が現役の教授の頃には九大と長崎大学の外科の間で関連病院をめぐって小競り合いがあったらしく、その時の印象でどうも釈然としないことがあったのでしょうか。この言葉の意味が理解できたのはずっと後のことでした。

私が九大の第二外科に入局したのは1986年で、井口先生は1985年にすでにご退官されていたので、私は直接ご指導していただいたことはありません。でも私がまだ若いころお会いした時には「私が作ったベッドサイドメモという本があるだろう。あの本はお前の爺さんの外科臨床の為にという本をまねしたんだよ。」とにこやかにお話ししていただいたことを覚えています。

医学部の5年生の頃、井口潔先生の退官講義をお聞きしました。私自身、当時不真面目な学生でしたので講義をどれくらい理解できたのか甚だ不確かではありますが、大変興味深いものでした。井口潔先生は門脈圧亢進症の外科の泰斗であり、自ら左胃下大静脈吻合術を考案され、1967年にLancetに発表された世界のパイオニアとして有名な先生でした。新たな術式を考案するに至った経緯や病態の理論的な背景に関することまで講義は踏み込まれていました。井口先生は九大に戻られる前にはお茶の水大学の理学部に国内留学され、流体力学を研究し、それで理学博士を取得されていました。井口先生の門脈圧亢進症の病態研究の理論的背景にはその知識が生かされていました。難解な数式などは私の理解をはるかに超えていましたが、研究の奥深さやそこから得られる喜びといったものは私にも感じられました。先生は門脈圧亢進症の病態に胃上部局所の循環亢進状態、いわゆる”hyperdynamic state”が重要な役割を果たしているということを看破されたのだと理解しています。思えばそのスライドの1枚1枚は当時の教室員の先生方の学位の研究だったのだと思いますが、学生の私も強い印象が残っています。研究の浪漫が感じられたといえば大袈裟でしょうか、私が卒業後第二外科を選んだのはおそらくそのことも影響していました。

自分が医局長や准教授になってからは教室の名代として井口先生のご自宅にお伺いしたことは何度かあります。皆様もご存じの通り、その後胃食道静脈瘤の治療は内視鏡やIVRに取って代わられ、井口先生の術式も行われることは無くなってしまいました。ただ、井口先生がおっしゃったことは今でも覚えています。「疾患に対する治療は時代とともに変遷していく。それは医療の進歩で当然のことだ。しかしながら、新しい治療の開発の中で解明された病因や病態は永遠に不滅である。」と言われました。松尾芭蕉の一門が芭蕉の考え方をして「不易流行」という言葉で表現したと聞いております。不易は時代の新古を超越して普遍なるもの、流行はその時々に応じて変化していくものを意味するが、両者は本質的には対立するものではなく、真に「流行」を得ればおのずから「不易」を生じ、また真に「不易」に徹すればそのまま「流行」を生ずるものと考えられているそうです(日本大百科全書:ニッポニカ)。井口先生はその言葉がお好きだったと聞いております。まさに左胃下大静脈吻合術は当時革新で“流行”、門脈圧亢進症の病態解明は“不易”とすれば井口先生の言葉はよく理解できます。

先生は還暦を迎えられたときに若手の教室員に対する処世訓として「老婆心録」をまとめられました。その内容は若手外科医の日常のあるべき姿や、臨床・研究・教育の分野における金言、アドバイスに満ちていました。今、多くの九大二外科出身の教授が全国で活躍しているのも、この老婆心録がバックボーンにあるおかげではないかとさえ考えることがあります。その中に「小さくても、ささやかでも、珠玉のごときものにつくりあげたい」という一文があり、私は一番好きです。この文章が教育に関することなのか、研究に関することなのか、井口先生に機会があればお伺いしたいと思っていましたが、そのチャンスを逸してしまったことが今となっては悔やまれます。私はたぶん両方に通じる言葉なのだろうと想像しています。井口先生の偉大な外科医としての輝かしい足跡はもちろん外科学の歴史の中で永遠に刻まれることと思いますが、「老婆心録」を通じて我々の在り方をいつも教えていただいていると感じています。

井口潔先生のご冥福を心からお祈り申し上げます。