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教授コラム

教授コラム Vol.72「不言の言」

現在、私は日本消化器外科学会の理事長を拝命していますが、その就任のご挨拶の中で「私は多様な背景を持つ会員一人ひとりの声なき声にも耳を傾け,思いに応える努力をいたします.」と抱負を述べさせて頂きました。先日、日本消化器外科学会においてハラスメントに関する会員アンケートを行ったところ、過去10年間にハラスメントを90%の会員が目撃し、72%の会員がその被害を受けたという悲しむべき結果でした。ハラスメントの被害者の多くは若手会員であるために、彼等彼女等は声を上げることができませんが、今回のアンケート結果は私にとって正に「声なき声」でありました。このハラスメントの問題には学会として取り組んでいく必要があると感じています。

群馬大学医学部附属病院の外科診療センターでは、症例の振り返りのカンファレンスを行っています。このカンファレンスは外科の医師だけではなく、看護師さんや医療安全部の皆様、ICUの先生方や関係ある診療科の先生方にも参加していただき、開催しています。先日ある診療科で術後の経過が思わしくなかった患者さんに関してカンファレンスが行われました。その最後に、ある看護師さんが、「私はこの患者さんが術前に感染症を起こしており、全身状態が悪いので手術を延期した方がよいのではないかと言ったのですが。」という発言をいただきました。おそらくその看護師さんは多くの参加者がいるカンファレンスにおいて相当の勇気を出して発言していただいたのだと思います。そのような経緯は医師の症例提示の中で触れられていなかったので私は驚きました。看護師さんの意見に対しては診療チームとして、きちんとした対応が必要と思います。医師は「感染症は諸検査で改善しており、手術をそのまま行いました。」とのことでした。術前の感染がコントロールされていたか否かという医学的判断やその事がこの患者さんの経過に影響したのかという議論はともかく、私には看護師さんの意見に対して診療チームとしてきちんとディスカッションはできていたのか、その結果をその看護師さんに伝えていたのかということは大変疑問に感じられました。カンファレンスにおいてそのような話があったことに全く触れられず、看護師さんの発言によってはじめて明らかになったとすればきちんとした対応はできていなかっただろうと感じたのです。医療の現場には医師と医師以外のメディカルスタッフの間には権威勾配が存在すると言われます。看護師さんが医師の治療方針に対して意見することは決して簡単な事ではありません。そうした思いを汲んで担当の診療チームはしっかりと対応して欲しかったと思います。今回のことの背景にある問題について私は担当医に説明を求めたのですが、担当医たちは感染は改善していたので医学的には問題ないという意見を繰り返し述べていました。私に最も深刻に感じられたのは当該の医師に私たちが何を問題にしているのかが理解できていなかったことです。チーム医療の重要性が叫ばれる中、医師以外の医療者の意見をいかに診療に反映させていくか、これはとても大切なことで、アサ―ティブ(assertive)な態度やそれに基づくコミュニケーションの重要性が強調されています。医師以外のスタッフの声に耳を貸さず結果として無視したということになれば、いつか人は言っても無駄だからという理由で口をつぐんでしまうでしょう。さらには問題が発生しても見て見ぬふりをしてしまう。それではチーム医療は成立しませんし、医療の質の改善は望めません。ですから、今回の事は決して看過できないと私には感じられたのです。

もう35年以上前の事でしょうか。私がまだ外科医となって間もない頃、ある大学の生化学教室で准教授をしていた兄から言われたことがあります。「お前がもし外科の教授になったら気を付けるように。外科の教授になって人事や金を握ったら、人はお前に何も言わなくなるだろう。どんなに不満に思っていても、面と向かってあなたを批判することはないだろう。批判されない中で10年もまともでいることはとても難しい。そのことを忘れるな。」兄は私が外科の教授になることを予想して言ったわけではないと思いますが、厳格な権威勾配が存在していた当時の外科の状況をみて私に忠告してくれたのだと思います。この言葉は外科の教授となった私にとって大切な忠告として今も私の胸に刺さっています。「声なき声」を大切にしたいという思いはこのようなことからきています。「声なき声」の以前に勇気をもって発せられた意見を尊重することは当然だと思うのです。

紀元前4世紀頃の中国・戦国時代に活躍した思想家の“荘子”の言葉に「聞不言之言(不言の言を聞く)」という言葉があるそうです。また、1969年11月3日のニクソン大統領がテレビ演説で用いた「silent majority」という言葉は今も民主主義では大切な言葉となっています。私達医師は医師以外の医療者や患者さん(もそうかもしれませんね)から発せられた意見に謙虚に耳を傾け、真摯に対応することはもちろん、不言の言をも汲み取る思いを胸に生きていくことの大切さを改めて感じています。