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教授コラム

教授コラム Vol.12「坂の上の雲の先に【祖父 調 来助のこと】」

Seoul National University Hospitalにて

今回、Seoul National University Hospital(SNUH)を訪問すると、Kim Soo Tae先生に迎えていただきました。今回の訪問はSNUHにおける優れた肝移植手術技術を学ぶ目的でした。Kim先生はSNUHで韓国の肝移植を初めて成功させた韓国の肝移植の父というべき偉い先生です。その先生にお出迎えしていただいたことは大変光栄でした。Kim先生は私がSNUHを訪問することを聞かれ、わざわざ迎えてくれたのです。Kim先生が数年前の日本移植学会に招待されたときに私の珍しい名前を発見され、私が祖父来助の孫であることを聞かれ、いつも日本の学会でお会いするたびにご挨拶をしていただいていました。
私の祖父調 来助は明治32年に福岡県の田舎に生まれ、貧農の出から苦学して東京帝国大学医学部を卒業し、昭和17年から昭和40年までの23年間にわたり長崎大学第一外科の教授として奉職しました。その間、外科医として中国や韓国に渡り、長崎大学では原爆を体験し、波乱万丈の人生を送った人でした。
祖父 来助は、福岡県の南、朝倉郡旧大福村大庭の調房吉の長男として明治32年(1899年)5月15日に生まれました。実家は貧乏で、来助を小学校に行かせるお金がなく、父親からは「小学校には行かないでいいので、家の手伝いをしなさい。」と言われたそうです。ただ、本人は勉強がしたくて、毎日小学校の窓から授業をみていたそうです。そのことを見かねて小学校の先生がお父さんを説得して小学校に行かせてもらえるようになりました。
小学校を卒業すると、今度は「寺の和尚さんになれ。」と言われたそうです。それを聞いて来助少年は家出を企てます。結局その家出はすぐに発覚して近くの国鉄の駅で捕まり、中学校に行かせてもらえることになりました。
中学は旧制県立朝倉中学校(現在の朝倉高校)に入学しましたが、靴が買えず毎日2里の道を下駄で通ったと言っていました。大正6年に卒業し、第五高等学校(現在の熊本大学)第三部に入学。この時は熊本の軍関係の親戚から奨学金をいただいたと聞いています。第五高等学校卒業後、大正9年、東京帝国大学(現在の東京大学)医学部医学科に入学しました。
東京帝国大学入学の時には、九州の炭坑王といわれた伊藤伝右衛門の作った伊藤育英会から奨学金をいただくことができました。来助は奨学金のお礼に福岡の「あかがね御殿」(現在の福岡市天神 福岡銀行本店)と呼ばれている伊藤邸を訪問し、伝右衛門と白蓮夫人と3人で会食をしたことが日記に残されています。伊藤伝右衛門と白蓮夫人のことは数年前にNHK朝の連続テレビ小説「花子とアン」で全国的に放送されたことは記憶に新しいところです。
東京帝国大学在学中に関東大震災がおこりますが、たまたま伊豆の友人のところに遊びに行っており、九死に一生を得ました。しかし、後に関東大震災の記憶が曖昧で詳細な記録を残すことの重要性を痛感したそうです。この反省から来助は長崎の原爆の経験を詳細な記録を残すことになったようです。
5年間の学業を終え、卒業と同時に第1外科の助手となり2年6カ月勤めました。その後、大正15年9月、北京医院外科医長に27歳の若さで赴任しました。これは、日清戦争後の日本と中華民国(現在の中国)の友好親善という目的と、中華民国の医学・薬学およびその技術を普及させ、一般衛生状態の改善を図るという使命がありました。来助は、2年半にわたり外科医として勤務し、成果を上げました。もうひとつは給料はよかったようですので、実家の借金を返済するという目的もあったようです。元々お酒好きの祖父でしたので、この時期には結構夜な夜な宴会を催していたようです。このような生活をしていてはだめだと思い、京城帝国大学第2外科の助教授という職を得て研究も行うことになりました。
さらに昭和4年4月からは、現在の韓国の朝鮮京城帝国大学第2外科助教授として8年間にわたって朝鮮の医学の普及と優秀な医師の養成に尽しました。ここでは医学博士の必要性を痛感し、研究に努力したようです。実験のために真冬のソウルの夜中に大学に行くことが大層つらかったという話をしてくれたことを覚えています。昭和9年には医学博士号を取得しています。昭和10年には「外科臨牀ノ為ニ」という外科の教科書をまとめました。これは整形外科から一般外科までの内容がコンパクトにポケットサイズにまとめられており、ベストセラーになりました。私が大学を卒業するときにお会いした九州大学第3内科の井林 博教授(当時)には「みんなこの本をポケットにいれて軍医として戦争に行ったんだ。」とお伺いしました。この本は戦後まで版を重ね25版まで出版されました。
昭和12年5月からは、朝鮮全羅南道立光州医院長を5年間務め、医療業務達成のために努力しました。およそ15年間の長い海外派遣で、日本医学の普及と日・中・韓の友好親善を、医学を通して立派に果たした功績は高く評価されました。
来助は長崎医科大学の強い要請を受け、昭和17年4月、長崎医科大学第1外科教授に就任しました。後に原爆で亡くなる角尾晋学長自ら朝鮮に来助を訪問していただき、長崎医科大学の第一外科教授就任を請われたと聞いています。
昭和17年からの長崎における生活は戦況不利な折、必ずしも楽ではなかったようですが、長崎での妻と息子2人と娘3人との生活で安定していたのではないかと思います。長男、次男は長崎医科大に入学し、祖父はこの2人に自分の跡取りとして大きな期待を持っていたのだと思います。しかしながら、昭和20年8月9日の長崎への原子爆弾投下は祖父のその後の人生を大きく変えました。来助は爆心地から600mの教授室で被爆しています。奇跡的に外傷はまったくなかったそうです。その時のことを来助は以下のように記しています。

「自室に帰って論文書きの最中、唯ならぬ爆音が聞えだしたので、空襲警報は解除になっていたが、確かに敵機と判断し、即座に立ち上って白衣を洋服に着替え、取るものも取りあえず、先ずは待避せんと部屋を出かかった。そのとき北側の窓でピッカと薄紫の光が光ったと思うと、ドドドッと物のこわれる音、咄嗟に蝦形にうずくまった背中に物が落ちかかり、眼前は真暗となって、身体中が埋まってしまった。耳をすますと、ザーッと大雨の降り注ぐような音、これは噴き上げられた土砂の落ちる音であろう。ややあって音も少し静かになったので、立ち上ろうと試みた。背中の物は案外に軽い。うまく立ち上ることができた。目を開けたがあたりは真の闇で、何一つ見えない。再びしゃがんで四囲の静まるのを待った。この間の気持は何とも云えない。地獄の真中に、自分一人が取り残されたような感じだった。
再び立ち上った。夜明けのように、漸次明るくなった。「今だ」と思って飛び出そうとしたが、先ず部屋の中を見まわした。今まで書きものをしていた机は前に傾き、整理函は倒れ、ベッドはゆがみ、衝立、椅子など、何一つ満足なものはない。天井は落ちてこれらの調度品の上に覆いかぶさっている。
机の前に行って見た。日記帳がちぎれて散乱している。取り上げてポケットに入れた。カバンは見当らない。その他机上の原稿、本、時計等も、どうなったかさっぱり判らない。逃げ遅れて又爆撃されては、との気が先に立って、大急ぎで部屋を出た。廊下も階段も、落下物で雑然としている。然し幸に難なく階下におりることができた。」

原爆投下によって長崎医科大は一瞬にして廃墟と化し、900名近い教官、学生、看護師、事務職員の命が失われました。祖父にとって長崎医科大学の学生であった長男と次男を原爆で失ったことは痛恨でした。その時の心境を以下のごとく綴っています。

「斯くして死地を脱した私は四尺宅でぶらぶらしながら、色々の事を考えた。自分だけは漸く一命をとりとめたものの、精一と弘治は、あたら青春を謳歌することもなく、再び帰らぬ人となった。これで調家はどうなるであろうか。それよりも灰燼に帰した長崎医科大学は、どんな運命を辿るであろうか。再建されて再び職に戻ることが出来るであろうか。悶々として寸時も晴れやかな時はなかったのである。」

自らも全身倦怠感や汎血球減少などの急性放射線障害の症状が起きましたが、その間も被爆者の治療・救済に努め、「医師の証言長崎原爆体験」や、被爆者約8千人の治療と同時に原爆による症状等を分析して「原爆障害の大要」として報告しました。その記録は今も長崎大学医学部に保管されています。この記録からは、来助の医師としての使命感、原爆の恐ろしさ、悲惨さ、原爆投下への怒りと悲しみが、心の底から湧いてきます。
来助は、89歳で心房細動にともなう脳梗塞で天寿を全うします。直前まで頭脳明晰で様々なことを教えてくれたことを思い出します。来助は明治に生まれ、克己して学問を修め、博士となったのですが、その後半生で最愛の2人の息子を失ったことはある意味歴史に翻弄された人生とも言えるかもしれません。「人間には運命というものがあるんだよ。」と言っていた祖父の何とも言えない複雑な表情を覚えています。明治に生まれ、努力をすることで大学の外科教授となり、おそらくは若いころに思い描いていた「坂の上の雲」を達成したわけですが、一方で最愛の2人の息子を原爆で奪われた悲しみが心の底にいつもあり、そのことを「運命」という言葉で表現するしかなかったのだろうと想像しています。

  • 京城帝国大学時代の建物
  • 韓国の先生方と祖父母の交流を示す写真

SNUHには京城帝国大学時代の建物が残され、中にはその歴史が展示されていました。ただ、現在の韓国国民の感情を反映してでしょうか、日本の統治時代のことは極力避けられている雰囲気を感じます。そのような中でも、Kim先生が私を温かく迎えてくださった理由は、SNUHの初代の医学部長であった外科の先生を祖父来助が京城帝国大学で指導した恩師であったということだったのです。今回、Kim先生からハングル語で書かれたその先生の追悼40周年の追悼集をいただき、その中には韓国の先生方と祖父母の交流を示す写真がありました(前列右から3、2番目は祖父母)。
祖父は日本が朝鮮を統治していた時代に朝鮮の医師や学生、そして患者さんに人間として真摯に向かいあい、その教育に力を尽くしたのであろうと思います。そうでなくては京城帝国大学の祖父のことを80年以上の歳月を経て韓国の皆さんが記憶しているわけがありません。時代は変わり、現在の日本と韓国の関係は必ずしも良好とは言えません。祖父の死後30年近くの年月が経ってしまいましたが、そのような中でも祖父が京城帝国大学に奉職してから80年を経ても祖父のことが伝えられていることに深く感動し、またそのことを誇りに思いました。
そして、相手がどのような立場の人でも、外科医として、大学の教育職についている者として、私はもう一度襟を正して診療と教育に力を尽くさねばならないと感じています。