桑野博行先生には九州大学第二外科でご指導をいただき、また私を群馬大学にみちびいていただいた先生です。私が1986年に九州大学を卒業し、当時の第二外科に入局した時、桑野先生は新任助手という一番若いスタッフとして我々を指導していただきました。新任助手という言葉は当時の第二外科では特別な響きがありました。新任助手は基本一人主治医で患者さんを持ち、認めていただければ研修医との二人主治医となれるという激務でした。桑野先生は当時教授になられたばかりの杉町圭蔵先生のリードされる食道外科のチームで臨床を一手に引き受けるという大変なお立場にありました。昔コマーシャルにあった“24時間働けますか?”という感じだったと思います。
その中でも我々研修医をいつも温かい目で可愛がっていただきましたし、よく飲みに連れて行ってくれました。また、桑野先生のお父様が入院されたときにも主治医にご指名をいただいたことも今になっては懐かしい思い出です。お父様は戦争で大変なご苦労をされており、シベリア抑留の話など聞かせていただきました。
その後桑野博行先生は1998年に群馬大学に外科教授として赴任され2018年までの20年間近くの長い間、群馬大学そして群馬県の外科診療の指導的立場としてご活躍されました。2018年からは福岡に戻られ、福岡市民病院の院長としてご活躍ですが、今も群馬大学の特別教授としてご指導をいただいております。
私が研修医時代にご指導をいただいてから30年近い年を経て、群馬大学の新設された肝胆膵外科学分野の教授として赴任できましたのも桑野先生のお力です。また、私が赴任してから桑野先生が退任されるまでの2年6か月も様々なことを教えていただきました。素晴らしい群馬の方々もご紹介いただきました。様々な問題も先生がおられたから乗り切ってこられたのだと思います。また、退任され今は福岡におられますが、いつも温かい指導やご助言をいただいています。私にとっても桑野先生抜きの人生は考えられません。
先日桑野先生からある書類をいただきました。それは花岡鹿城末裔所蔵の「花岡門人録」について(4)(日本医史学雑誌 第50巻第一号(2013)97-103)という花岡青洲の主催した塾に門人として勉強した医師のリストです。
花岡鹿城(1779~1827)は有名な花岡青洲(1760~1835)の弟です。青洲は独自に研究開発した麻酔薬「通仙散」を用いて全身麻酔下での乳癌摘出手術に世界で初めて成功し、不可能とされていた外科手術の数々を可能にしました。青洲は生涯紀州(和歌山県)の村に住し、多くの門弟を教えるかたわら地域医療に尽力しましたが、弟の鹿城を促して、堺のち大坂で開業させ、多くの人々に「華岡流外科」の恩恵を浴する機会を提供しました。鹿城は、兄の意を受けて高度な医療活動に従事するとともに、私塾「合水堂」を開いて門弟を育成しました。大阪中之島山崎にあった「合水堂」は「華岡流外科」を中心に医学を教授する塾でした。「華岡流外科」とは、紀州の在村医華岡青洲が創始した医学の一派です。
さて、花岡鹿城の末裔が所蔵していた「門人録」の件です。その門人録の100ページには「調黄渓(こうけい)」と「桑野萬里(ばんり)」という二人の名前が見てとれます。桑野博行先生の話ではこの「桑野萬里」は僕の先祖なんだけど、ひょっとして「調黄渓」は調君のご先祖様?どちらも筑前の出身に分類されています。実はわたくしの祖父「調 来助」は桑野先生のご出身に近い福岡県朝倉郡の出身ですし、珍しい苗字ですから、「そうですね!ひょっとして同時に花岡塾に留学していたんでしょうか?」とお話をしてその時は終わりました。
最近、少し時間がありましたので、この「調黄渓(こうけい)」と「桑野萬里(ばんり)」のことを調べてみました。なかなかヒントがなかったのですが、まずネットでとことん調べてみました。そうすると朝倉郡郷土人物誌に行き当たりました。この本は国立国会図書館に保管されていまして、閲覧ができました。大正15年に福岡県教育会によって刊行された本ですが、「桑野萬里」がp214に「調黄渓」がp221に掲載されていました。
桑野萬里は1794年に生まれ1865年に没しています。調黄渓は1797年に生まれ1851年に没しています。つまり、二人は3歳違いでほぼ同時期に医師として活躍していました。桑野萬里は名医として高名だった方のようで、紀州(和歌山)の花岡氏に学んだという記載があります。また、藩主秋月候がご病気の時に指名を受け、掛医として治療にあたり、その功を持って帯刀御免という処遇を受けたとあります。その後も自分の病院で地域医療に尽くし、亡くなったときには地域の方々に慕われていたため、その恩に皆が涙したとの記載がありました。
調黄渓は1797年に生まれ、1851年に没しています。「年16にして福岡藩亀井南冥先生の門に学び、刻苦勉励学業大いになり、門下生四天王の称あり。24歳にして医を四方に学び、35にて帰り、父の業を継ぐ。」とあります。この父の業というのは「十万軒」という医院だったようで、星野陽秋、調元琳という方から引き継いだ三代目であったようです。亀井南冥は儒学者として有名で、医師、教育者、漢詩人とあります。また、大東文化大の教授だった先生が所蔵していた資料の中にも調黄渓の名を見ることができます(黄虎洞伯泉齋研究室集蔵授業用参考資料)それによれば「北筑朝倉隠士獨釣軒之調黄溪」の横に、陽刻「獨釣軒」の落款が押されている。「調黄溪は筑前の人で、本姓は星野氏、名は友、字は尚甫、号を黄溪・独釣軒などと称し、調家の養子となって医を学び、更に亀井南冥に儒学を学んで亀門の四天王と称され、帰郷後は医を業とするも儒学を講じて門弟数百に及び、徳望高く詩画にも堪能な儒者である。」とあります。また、幕末から明治初期に活躍した池田徳太郎(種徳)が師事したと記載された文章もありました。花岡塾への遊学に関する記載はありませんが、花岡門人録では1833年に遊学したことになっています。調黄渓が私のご先祖かどうかが問題だったのですが、兄に問い合わせてわかりました。やはり、私のご先祖様でした。調家には詳細な家系図が残っており、それによれば黄渓は119番の番号が振られているとのこと、「ちなみに私達兄弟は1700番代だったよ。」とのこと。つまり、桑野萬里と調黄渓はともに桑野博行先生と私のご先祖様で、ほぼ同じ年代に生きた二人であったこと、医師としてともに花岡先生に学び、地域医療に貢献していたということになります。
最後に桑野萬里は下座郡小田村、福田村小田(朝倉郡郷土人物誌編纂当時)に居住しており、調黄渓は上座郡入地村、大福村入地(朝倉郡郷土人物誌編纂当時)に居住していました。現在の地図で確かめてみたところ、二人の居住地はなんと4kmくらいの距離しかありません。残念ながら、二人の交友の記録は残されていませんが、同年代に生き、同じ医師、花岡同門、自宅の距離は4kmしかない。きっと交友があったに違いないと確信しています。このことを桑野博行先生にお話ししたら、「きっと世の中のこと、医療のこと、そして花岡塾のことなど語りながら、酒を酌み交わしたに違いない。丁度わたしたちのように」と言っていただきました。
人の縁とは不思議なものとは言いますが、桑野博行先生と私のご先祖がこのような関係とは。。。そして200年を経てその子孫が師弟関係となるとは。運命(さだめ)ってあるんだろうな、そんな感慨を覚え、人の縁の不思議さに暫し感じ入ったことでした。
参考資料
1.花岡鹿城末裔所蔵の「花岡門人録」について(4)日本医史学雑誌 第50巻第一号(2013)97-103
2.合水堂と適々斎塾 http://xx326ohe.my.coocan.jp/sub7/nannyou-2.pdf
3.朝倉郡郷土人物誌 福岡県教育会編
4.池田徳太郎 Wikipedia
5.朝倉郡 Wikipedia
6.黄虎洞ギャラリー、http://www.ic.daito.ac.jp/~oukodou/