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教授コラム

教授コラム Vol.3「永末先生」

毎日、お疲れ様です。
九州大学第二外科の同門に永末先生がおられます。
今日はその先生をご紹介します。

若手の医師のころ、赴任した済生会八幡病院で院長にかわいがられ、病院の屋上に動物実験施設をつくってもらい、豚の実験をしていたという逸話があります。
大学から広島赤十字・原爆病院に赴任し、1970~80年代に同病院で数多くの肝癌に対する肝切除を行われました。
この結果を在野の病院からBr. J SurgやAnn Surgなどの一流誌に通し、請われて創設されたばかりの島根医科大へ助教授として赴任します。

このストーリーはそのころから始めます。

添付の文章には以下のようないきさつがあります。
第113回の日本外科学会定期学術集会で「創始と継志」という特別企画がありました。
その中で生体肝移植という項があり、永末先生に講演をお願いしようということになりました。
永末先生は「ぼくは引退した人間だからもういいよ。」と固辞されましたが、何とか説得し、お願いすることができました。ところが、その本を作ろうという話が持ち上がり、永末先生におねがいしたところ、もういいからということで、再度固辞されました。決断ー生体肝移植の軌跡という本ともう一冊NHKからブルーバックスが出版されていましたので「じゃあ、先生僕がまとめますから。いいですね。」といったところ、「わかったいいよ。そこまでいうならお願いします。」といわれ、私がまとめさせていただきました。
その文章が残っていましたので、ぜひ皆さんに読んでいただければと思います。

この移植が行われたころは、肝移植はわが国ではまさにタブーの状況でした。脳死肝移植を行えば犯罪者扱いだったと思います。このような社会情勢を頭に入れて読んでいただければと思います。

決断 生体肝移植の軌跡
永末直文

1989年9月14日の午後の木村直躬先生の電話からすべては始まった。
「ぼくの診ている患者で、一歳の先天性胆道閉鎖の子供に父親が自分の肝臓をやりたいと言っている。どうしたらいいだろう」
その時には
「オーストラリアに行くしかないのではないでしょうか」と答えた。
その年の夏ごろ、新聞でオーストラリアの病院では日本人の親子の同様の手術が成功した記事が掲載されたことを記憶していたからである。

私は昭和42年九州大学の卒業で、井口潔教授の主宰する第ニ外科に入局した。昭和44年に済生会八幡病院の外科に赴任した。ここで廣澤正久院長と出会い、当時まだ黎明期にあった肝臓外科を目指すよう導かれた。その後スウェーデンのルント大学に1年間留学し、ブタを用いた異所性肝移植の実験に参加した。高度の肝障害を示す多発外傷の患者に補助肝としてブタ肝臓を異所性肝移植し、数日後にブタ肝臓を摘出し、救命できた症例を経験した。その頃、米国デンバーのコロラド大学のスターズル教授や英国ケンブリッジ大学のカーン教授らは脳死肝移植の成績向上のための死にもの狂いの努力を続けていた。
帰国後は済生会八幡病院に戻り、廣澤院長にお願いして作ってもらった大動物用の実験室を使って犬の肝部分移植の実験を行った。昭和49年九州大学に帰学し、肝臓グループを作った。この九州大学における5年間は肝癌に対する切除や肝動脈結紮術などの肝がんに対する切除と肝移植の基礎となる研究を行った。その後広島赤十字原爆病院に赴任し、6年間に肝癌だけでも200例の切除を経験することができた。その間、多くの肝臓病の患者が死亡していくのを見守ることになった。肝移植の必要性益々感じていた日々であった。
昭和61年当時の中村輝久教授にお誘いいただき、島根医科大学に助教授として赴任した。広島時代一般病院でできることはやりつくしたと感じていた私は、犬、ブタ、ラットを用いた研究を続けた。とくに昭和61年9月以来週一回はブタを使って肝移植の実験を続けていた。また九州大学時代の肝臓グループの後輩で先に島根医科大学に赴任していた河野仁志講師にはカーン教授の元留学していただき、肝移植の臨床を学んでいただいた。

1989年10月21日私は岩国で杉本裕弥ちゃん親子を診た。まず、木村先生に腹部超音波検査を行っていただき、門脈本幹が開存していることを確認した。ドナーとなるお父さんの明弘さんの肝臓のエコーを行ったところ、軽度の脂肪肝があるものの移植肝のグラフトとなる肝外側区域の容量は裕弥ちゃんの全肝とほぼ同じと感じた。
その後、明弘さん、お母さんの寿美子さん、祖父母の政雄さん、満州子さんに説明を行った。まず満州子さんが、ドナーの明弘さんの危険性について質問があった。私はその肝切除で今まで患者さんを亡くしたことはないこと、突発的なことがなければ心配がないこと、肝臓は再生力が強いので3~4週間で元の状態で戻ることを説明した。裕弥ちゃんの移植については、この肝移植はたいへん難しい手術であり、裕弥ちゃんの状態からみると、手術中に死亡する可能性もないことはないということ、成功の可能性については私自身人での肝移植を行ったことがないチームなのでわからないとお答えした。祖父の政雄さんは「私が中心となって、オーストラリア、アメリカ、国内のいくつかの病院に相談しましたが、すべて駄目でした。この子の状態が日に日に悪化していくのを見ていると、素人でもあまりもたないことはよくわかります。私たち家族はこの子にできるだけのことをしてやりたい。そうでないと悔いが残ります。永末先生は引き受けようと言われる。明弘、ここはお前たち夫婦の気持ちが一番大切だから、二人で決めなさい。」私と向かい合っていた明弘さんが15秒ぐらい経ってから「よろしくお願いします。」と頭を下げた。
「わかりました」
私が生体肝移植を行う決意を固めたのはこの時である。
平成元年10月26日裕弥ちゃんが小児病棟に入院した。体重は7.5Kgで成長が遅れており、貧血、低蛋白血症、高度の黄疸を認めた。11月5日から下血が始まり、その後吐血も加わり、輸血が必要になった。9日裕弥ちゃんの呼吸が止まった。蘇生によって回復したが、10日の夜、低酸素血症が起こり、急性心不全を起こした。本当に肝移植まで行き着くのか自分自身も不安に思っていた。
私が初めてこの移植を引き受けたいといった時、肝臓チームのものは皆、無言になった。事の重大さに圧倒された感じといえば、最もその場の雰囲気を言い当てているだろう。「赤ちゃんは死にかけている。家族は結果を問わないからやってほしいという」私は言った。「われわれは肝移植を標榜している。これでわれわれのチームがこの移植を拒否するなら、この研究室での肝移植の実験はすべて明日からやめよう」皆、沈痛な顔をして聞いていた。皆の意見がノーであれば私は本当に肝移植の研究をやめるつもりでいた。世界の状況を考えれば名目だけの動物実験など私には無意味に思えた。皆の心は急速に固まっていった。ベストを尽くそう、その一点に向かって。
一方で、藤田病院長に裕弥ちゃんの病状を説明し肝移植の許可をえた。肝臓の専門家である第二内科の島田宣浩教授、小児科の森忠三教授に裕弥ちゃんの診察を仰ぎ、移植が必要との診断をしていただいた。さらに移植手術の術中・術後管理に中心的な役割を果たす麻酔科の小坂義弘教授を訪ね、全面的協力の確約を得た。麻酔科では浅野真講師を中心に肝移植麻酔チームをつくり、勉強会を開始してくれた。中央検査部の遠藤治郎教授には輸血と検査体制についてお願いした。第三内科の恒松徳五郎教授と坂根剛助教授には術後に免疫的なトラブルが発生した際の応援を依頼し、快諾を得た。また泌尿器科の石部知行教授には裕弥ちゃんに移植後の腎不全が起こった際の協力をお願いした。特に検査部の遠藤教授、グループ大学院生の山野井彰君、木許健生君の両大学院生にお願いしてA型の血液型の学生に供血のお願いをし、50名近い学生の供血者が集まった。遠藤教授にはこれらの学生のB型肝炎、梅毒、エイズがないか検査をお願いした。こうして、大学内の協力体制はほとんど整った。
移植手術が決定してから私はよく中村教授の部屋で話し合った。「永末君、ぼくはもう13年もここの教授をしていて思い残すことはない。福岡に帰れば済む。しかし、君はこの手術ですべてを失うかもしれない。ぼくはそれが一番心配だ。本当にそうなっても構わないのか。」何度か同じことを聞かれた。「先生大丈夫です。誰かがやらねばならないことを、私たちが今度やるだけです。これで弾劾されたら田舎に帰って開業します。」もし、医師としての道が絶たれたら田舎で特異な英語の塾でも開いて生計をたてることも考えていた。私は裕弥ちゃんの家族とすでに手術の約束をしており、「難しそうだからやめます」ということがあっては倫理にかなわないと折に触れて考えていた。中村教授と私の到達した結論は「結果を弾劾されたら二人で責任を取ろう」ということであった。事実、私は河野君以下の若い諸君にまで累が及ばないことを心から願っていた。
手術の予定は11月15日ということで事は進行していた。しかし、吐下血は続き、予断は許さなかった。2日早めて13日に移植を敢行しようと提案したところ、関連各科とも準備オーケーの返事であり、13日に移植日は決定した。移植の朝私は手術室に向かった。エレベーターの近くでおじいさんの政雄さんに会った。「裕弥ちゃんは手術の途中で死ぬ可能性もあります。私たちはベストを尽くしますが、もしそうなったらどうかご了承ください」と頭を下げた。
手術が終わって、2、3週間経った頃、家内は私に次のような話をした。手術当日彼女は私が家を出てから長男と長女を呼んで申し渡したという。「今日お父さんは日本で初めての難しい手術をします。赤ちゃんの命を助けようとするのだけれど、手術の結果が悪ければお父さんは大学を辞めることになると思う。お母さんはお父さんを信じている。あなたたちもお父さんを信じなさい。でも新聞やテレビでも、いろいろな人がお父さんを批判するでしょう。その時は福岡に帰って小さな病院を開業することになると思うし、その時はあなたたちも覚悟を決めなさい」二人の子供は福岡に帰れると喜んでいたそうだ。親の心、子知らずである。

11月13日裕弥ちゃんが手術室に搬入された。9:40分執刀開始、肝と腹壁の間の癒着は高度であったが、私たちは急ぐことなく淡々と剥離を進めた。肝と周辺臓器、つまり胃、十二指腸、大腸との間の癒着剥離にも相当の時間を要した。
父親の明弘さんは9時35分隣の手術室に運ばれて、待機していた。私は、ドナーの術者である河野君には、裕弥ちゃんの門脈の開存が確認され、肝臓の摘出が確実にできるとわかるまで皮膚の切開は行わないように頼んでいた。また、「すべて私の指示に従ってほしい」と麻酔医にも頼んでいた。9時50分明弘さんに硬膜外麻酔のためのチューブが留置された後、そのまま待機の状況であった。
裕弥ちゃんの肝臓の剥離が終わったのは13時33分でそれまでに2000mlの出血を認めた。これに相当する量の学生の新しい血液が輸血された。初めにあった出血傾向はこの時点では消失していた。裕弥ちゃんの循環動態は思いのほか安定していた。
私は肝門部の剥離に入った、解剖学的な位置関係がわかりにくい、前回の葛西手術によってつくられた肝門部と十二指腸の間の縫合部を切り離した。十二指腸に開いた穴を丹念に縫合閉鎖した。胆管は初めから存在しないので一気に門脈に迫った。門脈は予想通り細かったが、血液は肝臓に向かって流れていた。私はこの時点でドナー手術のゴーサインを出した。12時25分であった。引き続き肝動脈、次いで左右の肝静脈の剥離を進めた。これで、裕弥ちゃんの肝臓はいつでも取り出せる状態になった。ドナー手術は開腹が終わったばかりであった。明らかにドナー手術は立ち遅れていたが、しかたがなかった。
私は隣の部屋に行き、父親の手術をみた。明弘さんの手術は100kg近くあるため、視野がとりにくく、遅々として進まない様子であった。「河野君、裕弥ちゃんの状態は安定している。時間のことは気にせず、じっくりやりなさい。」私は励ました。
16時15分、私はドナー手術に加わった。河野君は、切除すべき左外側区域の肝静脈の分かれ方がよくわからず迷っていた。1本のはずの静脈が2本あるのである。私が術者となり、河野君には助手側に回ってもらった。私は切離線を決め、電気メスで印をつけた。残す八割と切り取る2割の肝臓の血流を流したまま、切離に入った。血管処理をしていつもの通り肝切除を行えば、この手術は100~200mlの出血量で済み、手術も一時間ぐらいのことが多い。だが、今回は違う。切除する2割の部分肝のほうにも最後まで血流を通してかなければ、裕弥ちゃんにいい状態の肝臓を移植することができないのだ。九分通り肝の切離が進んだところで、すべての脈管を切り離し、一気に肝切除を終えた。河野、山野井の両君が摘出肝の潅流、冷却に回った。私は張君、内田君と明弘さんの手術の仕上げを行った。出血量は1400mlであった。18時43分手術は終了した。
私は裕弥ちゃんのほうに戻った。状態は落ち着いていた。門脈を左右の分岐部で切断、次に固有肝動脈、左右肝静脈を切断し、一気に肝全摘を行った。わずか10分ぐらいで済んだ。下大静脈は遮断しないでもいける。循環状態は、門脈遮断下にもかかわらずまったく安定していた。用意はしていたものの、面倒なバイオポンプを使わずにいけそうなので、ほっとした。すでにアイスボックスに納まっていた父親の肝臓が慎重に取り出されて、裕弥ちゃんの横隔膜の下に入れられた。
父親の肝外側区域からは亜区域IIとIIIの肝静脈は別々に下大静脈に流入していた。つまり、左肝静脈は2本あったのだ。通常は1本であり、このような分かれ方は私たちにとって初めての経験で、教科書や文献でもみたことがない。この2本の肝静脈を裕弥ちゃんの左と右の肝静脈につなげばいい。まるで裕弥ちゃんにこの部分の肝臓を移植してくれと言わんばかりである。私はこの事実がわかったとき、何とも不思議な“親子のきずな”に心を打たれた。
まず裕弥ちゃんの左肝静脈と明弘さんからの肝臓のS2の肝静脈、ついで右肝静脈とS3の肝静脈をそれぞれ連続縫合で吻合した。口径に多少の違いはあったがうまくいった。
次に門脈の吻合に入った。先にも述べたように、裕弥ちゃんの門脈本幹の直径は体重に比べて著し細い。私は左右の門脈分岐部をトランペットの先のように形成した大きくした。問題は距離が届くかどうかだ。吻合する両血管を寄せてみると、丁度よさそうだった。この吻合も難なく終わった。
門脈血流を再開すると二分ぐらいで正常に近い色に変わった。これで肝臓は阻血から解放されたことになる。これからはあわてる必要はない。門脈血流は良好だ。私はひとまず安堵した。
次に難関の動脈吻合だ。私は眼鏡をはずしてもらい、裸眼で一番見える位置まで顔を近づけた。裕弥ちゃんの総肝動脈の直径は2mm、父親の左肝動脈は2.5mmぐらい。予想通りである。吸収性の血管用の糸を用いて吻合を始めた。室内の目はこの1点に集中した。私は肘を手術台に固定し、手先がぶれないように一針一針縫っていった。ただ無心の境地であった。吻合はどうにか終わった。吻合部に少し緊張が加わっているようだ。私はこれはやり直さねばならないなあと感じた。
肝動脈血が流れ出すと、肝の色がよくなり、胆汁の分泌が始まった。皆、喜びの声を上げた。この時点で私は腹壁を閉じる操作をしてみた。しかし、腹壁を寄せると肝臓が吻合した門脈を圧迫する可能性がある。腹腔内の容積にもう少しゆとりがほしい。私は脾臓の摘出を決心した。
裕弥ちゃんの脾臓は正常の10倍くらいに大きくなっていた。5歳以下の小児で脾臓を摘出すると肺炎を中心とした感染症をおこしやすくなる。私たちは術前からこの問題は十分に討議していた。「脾臓はできる限り残す。しかし、やむを得ない時には取ろう」これが方針であった。「背に腹は替えられない。脾摘をしよう」 脾摘を行った一時間足らずでやはり肝動脈は詰まってしまった。肝の色がやや黒ずんだ。私はこの手術の正念場にきたと思った。手術室にいた17,8人のスタッフは極度の緊張にあったという。特に中村教授は居ても立ってもいられなかった、と後で話してくれた。
私は、門脈は流れているから絶対に大丈夫あわてることないと自分に言い聞かせた。詰まってしまった吻合部を切除し、裕弥ちゃんの総肝動脈をその根元まで剥離した。今度は十分なゆとりがある。先ほど動脈吻合に使った吸収性の糸は、付いている針が柔らかすぎ、操作中すぐに彎曲がとれてまっすぐになってしまう。私は針のしっかりした7-0のナイロン糸を求めた。全周を一針ずつていねいに縫っていった。全部で9針か10針であったろう。これで駄目だったら脾動脈を反転させてやり直そうと思っていた。しかしその必要はなかった。今度は安心できる吻合であった。肝の色がまたよくなった。「先生、肝臓の緊張もよくなりました」山野井君が的確なことを言ってくれた。
23時23分のことである。
私たちは手術の最終段階に入った。少しずつ胆汁を出している胆管と小腸の吻合である。私は胆管にビニール管を挿入してみたが、奥まで進まない。ゾンデを使って同じことを何度繰り返しても同じであった。
私たちは術中胆管造影を行ってみた。肝臓の一部の胆管だけが造影されている。私は肝切除のときの糸が胆管にかかってしまったのではないかと考え、それらしいものを探した。河野君もそれらしい糸はベンチサージェリーで処理したという。
「仕方がない。一部胆管は閉塞しているかもしれないがその部位は術後のPTCDで対応しよう」私は提案し、胆管空腸吻合を終了した。術後残念ながらその通りになってしまった。
「永末さん、疲れたでしょう。あとはやっておきます」河野君が言ってくれた。
「どうにか無事に終わった」そう思いながらゴム手袋を外した。
思わず拍手が沸き起こった。中村教授も拍手してくれていた。私は皆に頭を下げ、協力を感謝した。私は手術が終わったことよりもこの拍手に感激し、無事に終わったなと逆に思った。腹壁縫合を行った山野井君が後で教えてくれた。
「お父さんの肝臓が裕弥ちゃんのお腹の中にはいりたいと言っているように納まりましたよ」私はすべてを振り返って、この父子はこういう運命だったのだろうと思った。
平成元年11月14日午前1時25分に手術は終了し、午前2時にICUに入室した。
私は血液で汚れた術衣を着替えて手術室を出た。テレビカメラ、フラッシュが手術室の入口に待ち構えていた。私は報道記者に取り囲まれて廊下を進んだ。どこをどう歩いているのか方向感覚を失っていた。100人以上の報道陣がたくさんのテレビカメラを向けて私たちを待っていた。
移植の一週間ぐらい前に、研究室で河野君たちに向かって私は予言した。
「移植後は、このキャンパスは報道陣であふれ、新聞はすべて一面トップでわれわれの移植のことを報道する。するだけのことをわれわれはするのだ」皆、半信半疑の顔をしていた。そう予想していた私でも、手術直後にそうなるとは考えていなかったので、報道陣のものものしさには圧倒された。
私はこの手術を行う前から、これが医学界や社会に与える影響について考えていた。そしてすべてを公開する義務があると思ってきた。
私は聞かれるままに自然体で答えていった。
「手術終了はハードルを二つ越えたにすぎません。」

11月14日午前8時、島根医大第二外科病棟カンファレンスルームでは、いつもの通り当直報告が始まった。父子の容態に特に変化はなかった。午前中、報道陣から記者会見を求められた。初めての生体肝移植を行い、世間にどの程度公表していくかは各自で意見が違って当たり前である。私の基本方針は「杉本さん一家のプライバシーを侵さない限りにおいてはすべてを公表すべきだ」私は医師団の治療上の意見の違いさえも公表すべきだと主張した。 ICUに入室した裕弥ちゃんは鼻から気管チューブを入れられて人工呼吸器につながれていたが、顔は平静そのものであった。これから4か月以上にわたる長い合併症との闘いが待っていようとは想像すらしなかった。
最初の闘いは11月17日早朝であった。人工呼吸器管理をしているのにもかかわらず血液ガスデータが悪化し始めた。術後1日目、2日目はいつでも気管内チューブを抜去できるくらいに血液ガスは良好な値であった。しかしこの日は人工呼吸器の酸素濃度を50~70%に上げても血液中の酸素分圧が思ったほどに上がらない。胸部レントゲンでは心陰影が拡大し、肺野に線上陰影が増強していた。水分の出納は過剰な水分投与になっていた。結論は心不全であった。強心剤、利尿剤、ステロイドの投与を開始した。この日の午後には血液ガスも改善し、初のテレビ公開になった。裕弥君は鼻からチューブを入れられているが、目をキョロキョロ動かし、頭をなでてくれる母親の姿を追っていた。
11月18日、手術創に感染が認められた。上腹部の手術創の左端から膿が出始め、この部分から黄色ブドウ球菌が検出された。この同じものが腹腔内のドレーンからも検出された。創が開いて腹腔内と交通し膿瘍をつくる危険があった。
11月21日には気管内チューブが抜去され、裕弥君は酸素テント内に収容された。2日後には口から水分、ミルクの摂取が始まった。食欲は旺盛である。特に母親が持ってきてくれた野菜ボーロを100個以上も食べて皆を驚かせた。
11月30日、次の障害は訪れた。肝機能の指標であるトランスアミナーゼは正常値に復しているのに血清ビリルビン値のみが緩やかに上昇を続け、ついに7mg/dlを超えた。結論は「急性拒絶反応の可能性あり」であった。これを確定するために最初の肝生検が行われた。肝生検の結果は軽い拒絶で、治療効果がすでに現れているということであった。プレパラートには胆汁うっ滞が著明にみられていた。治療はステロイドのパルス療法と決定した。
12月に入った。ステロイド治療にもかかわらず、血清ビリルビンは増加し続けた。このころから原因不明の発熱があり、腹腔内膿瘍の疑いが強まり、CT検査が行われた。この検査で肝内の脈管の異常拡張があることが分かった。この脈管は胆管であることが判明した。手術時には造影されなかった左胆管が、閉塞して、閉塞性の黄疸を起こしていると考えられた。PTCDを行うことになった。
12月5日、再び裕弥ちゃんに麻酔がかけられた。肝内胆管のPTCDによるドレナージは成功した。しかし、この操作がまた新たな合併症を引き起こしたのだった。PTCDの捜査中に門脈損傷が起こり、PTCDのチューブは血液で満たされ、出血は2日間続いた。しかしこの合併症を裕弥ちゃんは見事に乗り切った。PTCDからは毎日150ml以上の胆汁が排出され、みるみる黄疸がひいてきた。
12月12日術後1カ月の記者会見が行われた。裕弥ちゃんは気管内チューブもとれ、元気な姿をブラウン管に現した。おもちゃで遊び、お菓子を食べて見せた。術後一カ月から1週間は術後4カ月の中で最も安定した時期であった。裕弥ちゃんは食欲もあり、おもちゃで遊び、体重も8kgを超えた。この調子なら年内退院も可能だとわれわれを喜ばせた。しかし、この期待は12月18日の突然の下血により打ち破られた。翌日には下血はいったん止まったが、12月23日、24日には再び大量の下血が続いた。この下血はクリスマス以降は完全に止まり、年明けには一般病棟に出られるだろうというのが治療にあたる医師・看護師たちの願いであった。
12月28日顔に発疹がでてきた。2、3日で手足に赤い丘疹として拡がり始めた。全身に発疹ができ、水疱となり、皮膚の潰瘍があちこちにみられるようになった1月初めも食欲は衰えず、パン、野菜ボーロを頬張り、200mlのミルクを一気に飲んでいた。
1月16日午後、あれほど食欲旺盛だった裕弥ちゃんがミルクを吐いた。それからミルクをほしがらなくなった。
1月17日胃と左腎の間に膿瘍がエコー上認められた。午後から至急手術場で膿瘍穿刺が行われた。約70mlの白濁した膿が腹部から出てきた。この膿瘍の中にカテーテルが入れられ、毎日洗浄することになった。
しかし、じつはもっと重大な合併症が進行していたのだ。
1月22日、さらに腹部が張り始めた。腹部レントゲンでは中央部になにやら腸管以外のガスの存在が認められた。腹腔穿刺では220mlの褐色の腹水が得られた。腸穿孔による細菌性の腹膜炎であった。即座に手術になった。4回目の全身麻酔であった。腸穿孔はドナーの胆管とレシピエントの空腸をRoux-Y法で吻合したところから2cmばかり下がったところに発見された。この部分は周りの腸管の癒着でシールされており、このために腹膜炎が重症にならなかったと思われた。穿孔部を縫合閉鎖し、二本のドレーンを挿入して手術は終わった。裕弥ちゃんは気管内チューブを入れられ、人工呼吸器につながれたままであった。
平成2年1月26日、裕弥ちゃんの体温が38.6度に上がった。しかし、白血球数は4000、血小板7.3万であった。白血球数の減少、胸部レントゲンでは右胸水が認められ、呼吸障害はさらに続いた。ウイルス性の肺炎ではないか。最も考えられるのはサイトメガロウイルス感染である。厚生省が認可していないサイトメガロウイルスの特効薬ガンシクロビルがすぐに手配された。幸い厚生省が特別に使用を認めてくれたのである。
1月28日には白血球数は2100、血小板5.0万に低下した。
1月30日に手配していたガンシクロビルが届いた。早速体重1kgあたり5mgで1日2回使用することになった。夜になって検査に提出していた胸水にサイトメガロウイルスを疑うに十分の封入体があるとの報が病理検査部の長岡三郎講師からもたらされた。ガンシクロビルは2週間同じ量を投与することになった。
2月7日、PTCDチューブから再び出血が始まった。肝機能はさほど悪くないが、血液凝固系の検査結果はなかなか改善されなかった。そのため、この日、また肝生検が行われた。結果は中等度の拒絶反応の診断であった。レントゲン写真上の肺陰影はなかなか消えず、血液ガスの結果も改善しないために人工呼吸が長期に及んだ。
2月20日の検査ではサイトメガロウイルスが検出されなくなった。2月26日からガンシクロビルは隔日投与となった。
3月2日気管内チューブが抜去された。
3月4日から再び待望の経口での栄養摂取が始まった。しかし今度はあれほど旺盛であった食欲がなかなかでてこなかった。しかし、両親と親のように優しく看護してくれたICUの献身的な努力のおかげで、裕弥ちゃんは徐々に食欲を取り戻していった。
3月29日ついに裕弥ちゃんはICUから一般の小児科病室へ移ることになった。手術から136日目であった。一般病院の個室では部屋を無菌的に保つため、相変わらず帽子とマスクを着用する必要があったが、何よりも一日中家族が付き添えた。夜は母・寿美子さんが、ベットで添い寝した。お母さんといっしょにテレビを見たり、ビスケットを食べて喜んだりすると「ああ、ああ、ああ」と声を上げた。それが歌をうたっているように聞こえる時もあった。この一般病棟での至福の時はちょうど二か月だけ続いた。
5月30日、午前。胆管に挿入していたチューブを交換する際に大出血し、裕弥ちゃんはショック状態に陥った。翌6月1日には突然大量の吐血にみまわれて、直ちにICU へ移送された。6月3日になると、肝不全、腎不全、さらに肺機能の低下と溶血性貧血も出て、非常に危険な状態になった。6月4日、裕弥ちゃんはついに昏睡状態に陥る。翌5日意識は回復したが、サイトメガロウイルス肺炎が再発。6月半ばからステロイドの副作用かウイルス性肝炎のため、黄疸が出始めた。25日から腎不全が進行、人工透析を行い、人工呼吸器が外せなくなった。7月3日溶血性貧血が再発、8月16日には機関から出血して、一時窒息状態となった。われわれはあらゆる手を尽くし、闘い続けた。家族はこれまで裕弥ちゃんが何度も見せてくれた、奇跡が再び起こることを願った。しかし、平成2年8月24日、島根医科大学は記者会見で報告する。「杉本裕弥君は、本日2時32分、永眠なされました。ここに謹んでご報告申し上げます」最終的な死因は、輸血血液による免疫反応の結果としての、多臓器傷害。輸血血液によるGVHD であった。
8月25日、裕弥ちゃんの告別式が行われた。私は弔辞でこう述べた。「先生はもっともっと勉強して、君と同じ病気の子や、肝臓の悪い人を一人でも多く救うことを君に誓います。どうか、助けてあげられなかったことを許してください」
一般病棟に移った裕弥ちゃんが初めて覚えた言葉、「ああちゃん」それは母を呼ぶ声だった。今でも母・寿美子さんはその声を聴けただけで手術に踏み切ったことは無駄ではなかったと信じていると聞く。
岩国市にある、岩国市医療センター医師会病院のロビー。そこに1993年、移植手術への理解を深めてもらおうと、裕弥ちゃんの銅像が建てられた。その時、母・寿美子さんは一つのお願いをした、裕弥は立つことができずに亡くなったが、銅像は立った姿にしてほしい。いま、裕弥ちゃんは二本の足でしっかり立っている。
生体肝移植は1990年6月15日に京都大学で第2例目が、同19日には信州大学で第3例が行われた。2010年末までに6,000例以上の症例が行われた。母教室の九州大学第二外科では1996年から生体肝移植が開始され、現在では450例以上行われ、良好な成績を得ていると聞く。裕弥ちゃんが閉塞した日本の移植状況に突破口を開いたともいえるだろう。
私はいまでも杉本裕弥ちゃんに生体肝移植を行ったことに後悔はしていない。外科医として、医師として、困難な状況が予測されても患者を救命できる可能性があるならば逃げないこと、そして、徹底した情報公開を行うこと、このことが閉塞した肝移植への道を開いたと考えている。