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教授コラム

教授コラム Vol.32「野の中にすがたゆたけき一樹あり風も月日も枝に抱きて」

私が九州大学から麻生飯塚病院へ派遣が決まったとき、井口 潔先生にご挨拶にお伺いしました。その折に何かお言葉を書いていただけますかとお願いをしたところ、この歌を色紙に書いていただきました。平成十六年の冬のことでした。

この歌の作者は齋藤史です。平成九年の宮中歌会始で史は天皇皇后両陛下ご臨席の前で、自分の歌が講師によってゆったりと詠われるのを聞いていたといいます。

史の父は陸軍軍人で歌人であった齋藤瀏でした。瀏は二・二六事件にかかわったとして逆賊の汚名を着せられ禁固刑になり、後の生涯を歌人として過ごします。

平成六年。史は歌人となっており、日本芸術院新会員として宮中の御餐会に招かれたときのことです。食事が終わったとき、今上天皇が史のほうへ歩み寄られ、お声をかけられました。「いつから歌を作られたのですか」とご下問があり、「父が一生書いておりましたもので、わりに小さい頃から書き出しました」と答えました。すると陛下は「お父上は、斉藤瀏さんでしたね。軍人で・・・」と述べられました。

そして平成八年。正月十四日、史(八十八歳)は宮中歌会始の召人として歌を詠むことになりました。召し人とは天皇からただ一人召されて御題を歌うものです。史は宮中の大階段を昇るとき、「私はもう一人の人と、今日はこの階段を昇っているのよ」と声を発しました。もう一人とはお父様、瀏さんのことであったのでしょう。

歌会が終わり史は、そして誰へともなくこうつぶやきました。「実はね、さっきこの階段昇るとき向こうの庭に軍服の連中が並んでいるのが見えたのよ。おかしいでしょ。きっと私にしか見えないんだからどなたにもお話しなかったけど、ご迷惑だと思ってね」・・・おそらく栗原、坂井ら、ニ・ニ六の決起将校らでしょう。彼らはこの日、事件から61年経って逆賊の汚名から解放されたのでした。この歌にはこのような長い長い時の流れと思いがあるのです。

九大から麻生飯塚病院に出向することは私にとって本意ではありませんでした。大学の肝臓グループでは島田光生先生がながくチーフとして活躍されており、私はナンバー2でした。島田先生が徳島大学に教授として栄転され、これから大学で肝臓グループのチーフとして頑張りたいと思っていたからです。ある意味無念でした。その時の教授は前原喜彦先生でしたが、前原先生は私にもう一回り大きくなってほしいと思っておられたのでしょう。井口先生はそのようなわたくしの心を知ってか知らずか、この歌を色紙に書いていただきました。一般病院という野に下っても大きな外科医となりなさいという励ましではなかったかと思います。

私はこの後5年にわたって麻生飯塚病院に勤めることになりました。飯塚での5年間がなければ今の自分はないという位、外科医として大変貴重な経験をさせていただきました。

様々な人との出会い、励ましを受けて自分がある。そしてすべての人事を自分にとってプラスになるよう前向きに一生懸命に生きること、そのことが何よりも大切であることを今は感じます。

出向を命じられたのがちょうど年末でしたので今頃になるとこの歌を思い出します。

(インターネット:かつて日本は美しかった:ニ・ニ六事件で逆賊の汚名をきてというコラムを一部引用させていただいております。)