当科についてAbout

教授コラム

教授コラム Vol.59「病院の経営に大切な事」

先日、日本消化器外科学会理事長、慶應義塾大学筆頭常任理事(外科学教室教授)、北川雄光先生から“本日塾関係の案件で、麻生泰さんにお目にかかりました。調先生のお話も出て、「うちのエースだった」とたいそうお褒めでしたので私も嬉しくなりました。”といメールをいただき、懐かしく嬉しく感じました。そういえば、麻生泰さんは慶應義塾大学のご卒業でした。

皆さんは飯塚市をご存知でしょうか?飯塚は福岡県の中心に位置する人口8万の市で、筑豊という地方に属します。博多と小倉の丁度中間に位置し、古くは長崎街道の宿場町として栄え、その後炭鉱の町として栄えました。炭鉱の閉山に伴い、近年人口減少著しい街です。福岡市内から車で1時間ですが、八木山峠という急峻な峠を越えなければならず、文化的には福岡市内からは少し隔絶された感じがあります。川筋者という言葉はよく聞きました。川筋気質とは筑豊を流れる遠賀川の川筋に生きる人たちの気性を表す言葉で、「理屈をこねない」「竹を割ったような潔い性格」「宵越しの金を持つことを恥とする」といった特徴があげられるそうです。

麻生飯塚病院(正式には飯塚病院)は飯塚の市街地、遠賀川のそばにあります。2004年から2009年まで私は奉職しました。40歳代の5年間を飯塚病院で過ごしたことになります。飯塚病院は1918年炭鉱病院として開業、100年以上の歴史のある病院です。ベッド数1000床、救急救命センターが併設され、多くの急患を受け付けている巨大な病院です。五木寛之氏が執筆した大河小説“青春の門”、主人公の伊吹信介の母親は病気で亡くなりますが、息を引き取ったのは飯塚病院という設定だったと記憶しています。

病院のオーナーは麻生家で、自民党副総裁の麻生太郎さんの弟さんの泰さんが当時は飯塚病院を含めた麻生グループのリーダーを務めておられました。泰さんの奥様のお父様が医師会のドンといわれた武見太郎氏であったと聞いています。飯塚病院は臨床研修制度で有名な病院ですが、その理由を麻生泰さんが以下のように文章に残されています。

“妻の父で日本医師会会長を務めた武見太郎は、『ケンカ太郎』と言われることもあり、迫力十分でした。先が見え、勉強をし、勘も良く、家庭を大事にする人でした。なぜか私を気に入ってくれていました。妻の説明によれば、「泰君は宗教心があるから良い」という表現をされていたそうです。
孫に会いに飯塚にはよく来ていました。飯塚病院を見学すると、実に厳しい評価を私に与えてくれました。その中でも、「若手医師の研修教育指定病院になっていないことを恥だと思え」と言われたことは、今考えてみると、研修教育に力を入れ、分けても医師を集める魅力を持つことが、この田舎病院の再建への具体的目標として丁度良いという読みがあったのかもしれません。(麻生泰のメッセージ〈麻生グループ〉 (aso-group.jp))”

2004年医局の派遣で私と現在食道外科で高名ながん研有明病院副院長 渡邊雅之君の2人で飯塚病院に赴任したのです。外科のスタッフは7、8名だったと思いますが、年間1300例ほどの消化器外科手術があり、その1/3は急患でした。正に野戦病院という状況の中で、私は肝切除を100例近く、渡邊君は食道癌の切除再建を30例以上行っていました。福岡市内から車で1時間ですので、自宅から通って通えないことはないのですが、2人とも単身赴任状態でした。それまで私は部門のトップを任されたことはなく、初めて肝胆膵外科のトップとして赴任しましたので、一心不乱に手術に、臨床に取り組んだ時期だと思います。濃密な外科医としての5年間でした。私の肝胆膵外科医としてのバックボーンは飯塚病院で作られました。そして本当に渡邊君には助けられました。渡邊君は困ったときに相談するとニコッと余計なことは一切言わず、“わかりました。”と言ってくれました。今でも感謝の気持ちで一杯です。

当時飯塚病院には外科志望の元気で優秀なレジデントが多くいました。その中に、徳永正則君がいます。徳永君は東京医科歯科大学の上部消化管外科の准教授として全国的に活躍しています。今思えば彼が初めて書いた日本語の症例報告を指導したことは私の自慢です。彼が中央に行くときに私が背中を押したと最近徳永君から聞きました。正直あまり記憶がないのです。いい加減な先輩でごめんなさい。

2004年4月1日、飯塚病院赴任の第一日目に入社式がありました。飯塚病院は株式会社病院なのです。現在は株式会社が病院経営に参入することは法律で禁じられていますが、元々株式会社だった病院については追認されたと聞いています。ですから、医師として赴任した我々は麻生の社員となり、社員番号もいただきました。面食らったのを覚えています。 その入社式で麻生泰さんがご挨拶されましたが、その途中に後ろからつっつかれ、幹部の先生からお前質問しろと言われ、「何聞いてもいいですか?」と言ったら、「何聞いてもいいよ。」と言われて、「本当にいいですね。」と念を押したうえで、「株式会社は利益を上げるのがミッションと思いますが、株式会社病院で働いた事がないので、どうしたらいいのでしょうか?」と聞いてしまいました。泰さんは満面の笑顔で「先生が患者さんに最もいいと思われる治療をしてあげて下さい。」と言われました。よっしゃ、やってやろうやないかと思ったのをよく覚えています。その時泰さんが“利潤を上げるために頑張ってください”なんて言ったら、やる気なくなったと思います。

当時飯塚病院は年間6~7億円の黒字を計上していたと思います。 “一生懸命、患者さんにいい医療をする。” 病院の健全経営のためにこれ以上大切なことがあるでしょうか。麻生泰さんはそんな当たり前のことを教えてくれたのだと思います。

飯塚病院での思い出は1冊の本が書ける位ありますが、それは又別の機会に。