当科についてAbout

教授コラム

教授コラム Vol.51「昭和の外科医」

これまで祖父のことは何度かこのコラムで触れてきましたが、父のことはあまり触れてきませんでした。私にとって父は祖父に比べて近すぎる存在で心のどこかでまだ触れることは難しい気がしていました。
父の名前は調 亟治(シラベ ジョウジ)です。大正14年の長崎県西彼杵郡時津町、という大村湾に面した漁村(当時)の生まれです。今なら長崎市の中心地から車で1時間と言ったところでしょうか。元々は、田崎という苗字でしたが、母と結婚して母方の苗字の調に変わりました。父は時津で開業医の長男として生まれました。お父さんが開業の前にハワイの移民の医師として一家でハワイに移住していたことがあり、その時の影響でジョウジという名前になったと聞いています。(私はケンですので、調家にはジョージとケンがいたわけです。)父が子供のころはやんちゃでいたずら好き、いつもお母さんが長い定規を持って追い回していたと聞いています。小学校のころ、数人の友達と小学校の屋根裏に隠れていたところ、先生の見回りのときに子供たちの重さに耐えかねて天井が破れ、天井から続けて子供たちが落ちてきて先生が腰を抜かしたなどという話を嬉しそうにしてくれました。私が小学生の頃は時々父や祖父と釣りに行きましたが、父が器用に船の櫓をこいでくれたことを思い出します。

お父さんは開業医だったので決して金銭的な苦労はしていなかったと思いますが、貧しい漁村ですから診療費が払えない人たちがたくさんいて薬代や診療費の代わりに魚や農作物を現物でもらったりしていたということでした。いたずらが過ぎたせいではないと思いますが、父は長崎県立瓊浦中学(旧制)に入学し、今でいう高校生のころには家から離れ長崎市内に下宿していたそうです。その後父は長崎大学に入学しましたが、第二次世界大戦末期には自ら志願し、昭和20年8月初旬に陸軍に入隊したそうです。出発の時には同級生とは水杯を交わして別れたそうです。本人は友達に「死んでくる。」と言って別れたのだけれど、8月9日には長崎に原子爆弾が投下され、同級生はみんな亡くなってしまい、自分だけが九死に一生をえたと言っていました。父の下宿も大学の近くで、大学自体も原爆で壊滅しましたので、軍に志願していなければ原爆で亡くなっていた可能性が高いと思います。

大学を卒業後、医師として働くためには医師国家試験を受けて合格する必要があります。当時の医師国家試験は年に2回春夏にあっていたようですが、春の試験で合格はしていたものの医師免許発行に必要なお金を使いこんでしまい、父の医師免許発行はその年の夏の終わりになったようです。事情を知らない人からは「調先生は秋の合格ですか?」と言われるといつも憤慨していました。

父は大学を卒業後祖父の主催していた長崎大学第一外科に入局しました。しばらくは消化管を中心とした腹部外科をやっていたようです。父は膵頭十二指腸切除ができる心臓外科血管外科医ということが自慢でした。若い頃は無給で、いつもお金には困っていた時代があったようです。長兄の幼稚園の頃参観日に、母が幼稚園に行って見学していたようです。先生が「屋根はなんでできていますか?」と聞き、兄が一番元気よく手を挙げて「トタン!」と答えたそうです。ずいぶん母から父は何とかしてくださいと言われたようです。(わたくしの家の屋根は瓦ではなく本当にトタンで、夜になるとトタンが破れた隙間から月が見えたと聞いています。)お金の面では母はずいぶん苦労したと思います。今では考えられないが、米屋の支払いを待ってもらったりしていたようです。ある日そんなになんでお金が足らないんだと言って父が給料を母の目の前で、米代など生活に必要なお金に分けていったら本当に足らなかったと母は笑っていました。それでもお父さんは医学書を買うんだから、と母は愚痴っていました。父は有給になったときも同級生と2人で助手(現在の助教)の給料を折半していたので、どちらが先に助手になったかよくわからない。でもあの頃はみんな貧しかったからなと父は言っていました。

本当かどうかは分かりませんが、父が若い頃、祖父の手術に助手として手洗いをしていたところ、暇なので手遊びをしていたら、祖父からえらく叱られて、咄嗟に「血が出ない手術はおもしろくありません。」と応えたとのこと、その時祖父から「あなたは心臓外科をやりなさい。」と言われ、人生が決まったとのこと。流石にできすぎたエピソードのように思いますが。

父は祖父の長女であった母と結婚しました。その後、祖父の長男、次男が長崎の原爆で亡くなって跡継ぎがいなかったこともあり、私が幼稚園の頃一家で田崎から調に名前が変わりました。私が子供のころ、祖父母と私の家族で会食することもありましたが、家族団らんの時も父が祖父に話すときにはいつも敬語でした。教授と教室員という関係は変わらなかったのだと思います。そして私が医学部に入ったら、医療の話題をするときには祖父が独逸語、父がそれを英語に訳して私達に伝えてくれたこともありました。九大第二外科の大先輩から聞いた話ですが、その先生が医局長のころ、父が当時教授だった井口潔先生のところを訪れたそうです。内容は関連病院をどうずるかという話だったようですが、その九大の大先輩からは「井口先生にあんな失礼なことを言ったのはあんたのオヤジくらいだよ。」と言われました。父に聞いたら、「だっておじいちゃん(当時長崎大学の教授)から井口先生に文句言って来いって言われたからな。」とニヤリとしていました。祖父との関係で医局員の時代にはずいぶん嫌な仕事もやらざるを得なかったのだろうと思います。

父は昭和30年に1年間、アメリカに心臓外科を学ぶために留学しました。フルブライトの奨学金をもらったそうです。シカゴ大学に留学し、ミネソタ大学にも立ち寄ったと聞いています。それは私が留学した大学でした。そのころ、リンガフォンという英会話の勉強のためのテープがあり、一生懸命勉強して留学したらしいのですが、アメリカに到着して「オレンジジュース」を注文したら、全く通じず呆然としたと言っていました。大学の食堂では列に並んだら、いろいろ注文を聞かれるので、「前の人と一緒」といつも言っていたそうです。周りに日本人は全くおらず、日本語を聞きたくてたまらない時があったようです。ある日映画館でゴジラが上映されていて「やった!日本語が聴ける」と楽しみに映画館に入ったら、全編英語吹替でがっかりしたと言っていました。

留学時代は日本とアメリカのとの国力の違いを強く感じたようです。父が留学する直前に撮影してもらった写真が残っています。それは長崎市の一番繁華街の浜町での撮影と思いますが、道路は舗装されていません。一方アメリカでは「家庭に自家用車はもちろん、テレビがあり、アメリカのホームドラマの世界がそのままだった。セントラルヒーティングは当たり前で外は寒くても部屋は暖かい。ドアツードアで来れるので秘書さんは毛皮のコートの下は半そでなんだよ。」それに比べ冬のシカゴはあんまり寒いので、自分は股引をズボンの下に履いて病院に歩いて行っていた。手術室の更衣室で、着替えていると皆が物珍しそうに集まってきて、「それはなんだ?電気工事夫が電柱に上るときに着ている服だなあ。」と言われて恥ずかしかったと言っていました。「こんな国と戦争して勝つわけがないと心底思った。」と言っていたことを思い出します。

帰国後は長崎大学で心臓血管外科を立ち上げ、心臓を停止して開心術を行ったという当時の長崎新聞の記事が長崎の自宅には残っています。日本のパイオニアというほどではなかったものの、心臓血管外科の第一世代だったのだと思います。父は時々、家で刺繍をしており、なんで?と聞くと手術の運針の練習だと言っていました。心臓の手術のトレーニングをしていたのですね。私も父から「外科医になるなら、手術が上手にならんといかんぞ。」と言われたことを思い出します。心臓外科立ち上げのころは黎明期ならではの苦労も多かったと思います。長崎大学時代に父と共に働き、後の長崎大学の心臓血管外科の初代の教授になられた釘宮敏定先生はよく徹夜で術後の患者さんの尿の管理をしていたという苦労話を残しておられます。患者さんの恢復のためには24時間働くことが当たり前というのが昭和の外科医だったような気がします。

当時長崎大学には心臓血管外科という診療科は独立しておらず、第一外科の一分野でしたので長崎大学に残っていても教授にはなれない状況であったようです。父は新設された大分医科大学第二外科の初代教授として1979年に赴任します。後に父の後を引き継がれて大分医科大の教授になられた内田雄三(1988~2003年教授)先生を助教授に、数名の先生方と心臓血管、肺、消化管の外科を担当していました。当時のラウンドはとても厳しかったと内田先生が記録を残していただいています。父は怒りっぽい性格で、瞬間湯沸かし器という一面もありました。些細なことでみるみる顔面紅潮し、一目で怒ったなというのがわかります。一家団欒の時にもそんなことがあり、子供心にもそんなに怒らなくても、と思うこともありました。父が教授時代には教室員の先生方は苦労されただろうと思います。

父は大正14年生まれで、昭和の時代を生き切った外科医でした。戦争中は九死に一生を得ました。終戦やアメリカ留学を経て恐らく大きく価値観が変わった、あるいは変わらざるを得なかったのだと想像しています。戦争で亡くなった同世代の人を常に意識していたわけではないとは思いますが、生きること自体が難しい時代に育ったのだと思います。そうした時代背景からは生きている以上必死で生き抜くことが当たり前の世代の人でもあったかもしれません。父はアメリカで心臓血管外科という新しい医療を学び、日本でその成績の向上に半生を費やしました。子供のころ手術をした患者さんから、元気になり運動会でも走っていますという年賀状をもらい、とても嬉しそうにしていたことを思い出します。外科医としてとても遣り甲斐のある人生ではなかったかと思います。私が外科医になると言ったときに父は喜んでくれると思ったら、「今更外科に行って何かやることがあるかなあ?」と言われびっくりしたことを30年以上経っても覚えています。おそらく心臓外科という全く新たな高難度外科医療に挑戦し、それを切り開いた父だからの言葉だったのだろうと今では分かります。もう18年前に父は他界しましたが、もしもう一度父と会うことができたら、「その心配は杞憂だったよ。外科医として結構楽しい人生を送っているよ。」と私は伝えたいと思います。