私のコラム外科医の父より医師になる息子へのメッセージも10回になりました。いろいろ息子に伝えたいことはまだまだありますが、いったんここで普通のコラムに戻りたいと思います。
司馬遼太郎の小説に西郷隆盛と大久保利通のことを取り上げた「翔ぶが如く」がありますが、その中に西南戦争で西郷隆盛と運命を共にした増田栄太郎のことが触れられています。
西南戦争では、薩摩人だけでなく、明治政府に不満を抱く九州各地の士族たちも起ち上がり、戦争に合流しました。蜂起した主な部隊には、都城隊(旧薩摩藩領)、佐土原隊(薩摩藩支藩)、熊本の熊本隊・熊本協同隊・竜口隊、人吉の人吉隊、日向の延岡隊・高鍋隊・飫肥隊、高鍋分領の福島隊、豊後の竹田報国隊、そして中津隊などがあります。
増田栄太郎はその中の中津隊の隊長でした。薩摩軍は敗戦し、鹿児島に退却して死をかけた闘いに臨もうとしていました。増田栄太郎は、「薩軍は豊後へは向かわない。鹿児島へむかう。われわれ中津隊の役目は済んだといっていい。ここから中津へ帰れ」と生き残った中津隊の隊員に伝えます。自分だけ鹿児島に向かうという増田に理由を問うと、
「吾(われ)、此処(ここ)に来り、始めて親しく西郷先生に接することを得たり。一日先生に接すれば一日の愛生ず。三日先生に接すれば三日の愛生ず。親愛日に加はり、去るべくもあらず。今は、善も悪も死生を共にせんのみ。」と言ったそうです。
西郷隆盛という人は死後140年以上が経っていますが、今も鹿児島の人々から愛されていると思います。人を惹きつける魅力を持っていた人でしょう。
私にとって「三日の愛生ず。」と感じられる存在は兼松隆之先生です。兼松隆之先生は福岡の修猷館高校を卒業されました。長崎大学に進学をされご卒業の後、1971年に九州大学第二外科に入局された大先輩です。私が入局したころには肝臓グループのチーフとして指導的なお立場にありました。そして私が入局した1986年に助教授に就任されました。私の研修医1年目、そして研修医が終了し、肝臓グループの研究室に配属され研究生活を送った1年2か月間ご指導をいただきました。当時の教授であった杉町圭蔵先生は呼吸器外科の配属を考えておられたようですが、兼松先生が私を強力に肝臓グループに引っ張っていただき、私の肝臓グループへの配属が決まったと後から聞きました。兼松先生は私がアメリカに留学中の1991年に長崎大学第二外科の教授に就任されましたので、振り返ってみればご指導いただいたのは3年足らずの期間ではありましたが、私の人生に大きな影響をいただき、節目節目で導いていただいたと感じています。
研究室時代の肝臓グループで兼松先生から学会抄録やスライドの作り方、論文の書き方など徹底的に指導していただきました。兼松先生は学会発表でも決して妥協されませんでした。もう遠い日のことになってしましましたが、そのころグラフは手作りでした。グラフの中の一つの〇は昔のガムのおまけのシールのようなものを一つ一つ擦って貼り付けます。ですから、「これはグラフにしよう」言われると徹夜仕事です。やり直し、やり直しで結局いつも最終原稿ができるのは学会発表前ぎりぎりになってしまいます。スライド原稿を大学の近くにあった大同カメラというカメラ屋にもっていって焼き付けてもらいブルースライドができるのですが、いつも前の日の夕方に原稿を持ち込むものですから、カメラ屋のおばちゃんから「またですかあ。」といつも呆れられ、平身低頭でお願いしていたのを思い出します。でもこの頃があるから、今でも若い人の発表を指導できると思っています。
研究室での私に与えられた研究テーマは人工肝臓を作るというものでした。人工肝臓は当時始まったばかりの肝細胞の初代培養の技術や工学的な知識も必要になりますので、なかなか進まなかったのです。その間、肝細胞癌の病理を独学で勉強し、当時300例程度であった切除例の標本を全例見させていただきました。長時間顕微鏡を見ていると夜遅く帰宅途中の道路のアスファルトが肝細胞索に見えていました。病棟で最も若い主治医として園田孝志先生(現済生会唐津病院院長、全国済生会病院長会会長)がおられました。朝から晩まで臨床で超多忙な生活を送っておられました。園田先生は病理の大学院を卒業しておられましたので夜の12時ころにへとへとになって研究棟に戻られたのを捕まえて顕微鏡を一緒に見てくださいとお願いしていたのを思い出します。このころの経験からCTやMRIを見ると私の脳裏には腫瘍の病理像が浮かんできます。園田先生、本当にありがとうございました。
人工肝臓の研究の方はさっぱり進まない、さえない毎日を送っていたときのことです。(アメリカ留学前のことです。)ある日、別件で兼松先生のお部屋に呼ばれたときのこと、兼松先生に「研究はどうですか?」と聞かれましたので「全然だめですね。」とお答えしました。その時の私の態度が前向きではなかったのでしょう。兼松先生は自分の背中側にある書架を指しながら、「これは私の大学院時代の研究ノートです。」見れば沢山のファイルがありました。「基礎大学院でいろいろ実験をしたけど、全部ネガティブ・データです。思い通りの結果にはならなかった。私の学位は福岡医学会雑誌でそんないい雑誌には載らなかった。だけど、このノートがあるから君たち若い研究者の指導ができる。今、学位の仕事で免疫組織化学染色の染まった、染まらないで予後を検討し、簡単に学位を取る人もいるけれども、それで人を指導できますか。」とおっしゃいました。そのころ、短期間で割と簡単に結果がでる研究で学位論文を作成する人がいました。兼松先生からは将来私に指導者になれという期待をいただいた共に、とにかく一生懸命研究をすることの大切さを教えていただきました。その結果よしんば良い結果が得られなくとも将来必ず役に立つと励ましていただいたと思います。
教授コラム Vol.32「野の中にすがたゆたけき一樹あり風も月日も枝に抱きて」でも触れた飯塚病院の出向の前には兼松先生にお電話して長崎駅近くのホテルニュー長崎の1階の喫茶店でお話を聞いてもらいました。私は関連病院に出向を命じられた理不尽について聞いてもらおうと思っていました。兼松先生はそんな私に「君は大学に残るためにどんな努力をしていますか?」と質問をされました。私は満足に答えることができず、自分自身の努力不足について気づかされました。今でいうコーチングというのでしょうか、大切な気付きをいただきました。飯塚病院で臨床はもちろん、学術的にも頑張って大学を見返してやるというファイトが湧いてきたことを思い出します。
私の教授就任に際しては、わざわざ長崎から祝賀会に駆け付けていただいて、高杉晋作の「実があるなら今月今宵、一夜明ければたれも来る」という揮毫をいただきました。兼松先生も長崎大学に赴任した当時は大変ご苦労されたようです。けれども正しいと思えばどんなに苦しくても、賛同する人がいなくても信念を持って進むべしというメッセージだと思います。兼松先生は決してぶれない軸をお持ちだと思います。それは師に対する恩義や正義に殉ずるという姿勢で、自らの全てをかけて守ろうされていたお姿を思い出します。同時に弱いものや若者に対する温かさを感じます。一見明るさに満ちて見える状況でも必ず存在する光の影の部分やそこにいる人に思いを馳せておられると思います。それが兼松先生に対する信頼に繋がっていますし、そこに愛が生まれ離れがたいのではないかと思います。
兼松先生と話すとうれしくなってしまい、いつもしゃべりすぎて失礼なことばかり言っています。先生、どうぞお許しください。