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教授コラム

教授コラム Vol.71「二人のライオン」

柴田紘一郎先生は、さだまさしさんの「風に立つライオン」のモデルになった外科医です。1940年宮崎県に生まれ、1960年長崎大学医学部に入学されました。卒業後、長崎大学第一外科に入局。第一外科の助手を経て、熱帯医学研究所所属でケニアに赴任し、アフリカで医療支援を行いました。子供の頃、紙芝居で『ターザンの冒険』やアフリカのジャングルを舞台にけがや病気で苦しむ人たちを助けるアルベルト・シュバイツァー博士の話を聞いてとても印象に残っていたと言われます。その後、シュバイツァー博士の伝記を読んだ感動から、将来アフリカに行きたい、ドクターになりたいという気持ちが芽生えたそうです。中学3年生の時には友人たちと、『アフリカに行ってノーベル賞を取る!』と書いた血判状を作ったというエピソードもほほえましいですね。長崎大学を受験したのは当時日本ではめずらしかった熱帯医学研究所があったからといいます。当時の熱帯医学研究所は海外技術開発事業団(OTCA)でケニアへ医師、看護師、検査技師らを派遣して医療支援を行っていました。

大学を卒業して当時の第一外科に入局5年目の1971年、医局の会議で辻泰邦教授(当時)から「前任者の任期が終わるので、次にケニアに行きたい者は?」と提案がありました。皆が手を挙げない中、何度目の会議の後、まだまだ技術に自信がなかった柴田先生はためらいながら手を挙げたとのこと。辻教授は喜んで「やっぱり君しかいないと思っていた」と言われ、すんなり赴任が決まったといいます。

赴任したリフトバレー州総合病院(ナクール病院)の医療機器は日本が供与したX線撮影機と胃カメラ、心電図くらいしかなく、想像以上に医療事情は厳しかったと言います。インド人医師やケニア人の看護助手と共に、交通事故や火傷、帝王切開の必要な妊婦さんにも対応し、マラリアや結核などの内科治療も行わなければならなかったと言います。ケニアに渡った翌年の1972年だけでも緊急手術が1,400件、予定手術が1,700件に達したと言います。これは1日当たり8件以上の手術数になり、設備も人的な資源も不十分な中、今では想像もつかない過酷さです。言葉も十分通じない中、とにかく次から次に患者さんに次々対応するのに精一杯の毎日だったようです。寝る暇や食事をとる時間があったのでしょうか。柴田先生は2年半でのケニアでの医療支援の後帰国をされました。

柴田先生はこのケニアでの2年半に医師としての自分の原点があると言われています。生涯医師として大切な姿勢を「LOVE」という言葉で表現されました。Lはlisten、患者さんの言葉に共感を持って傾聴すること、Oはoverview、全体を診る事、これは日本慈恵会医科大学の創始者 高木兼寛の言葉『病気を診ずして、病人を診よ。』にも通じるのでしょうか。Vはvoice、医師の言葉の重要さ、患者さんに勇気を与えることもできるし、逆に傷つけてしまうこともある一言に心を込めて話すことの大切さ、Eはexcuse、許し。ケニアで末期の患者さんに力が及ばなかったこと、自分の未熟さを謝罪した時に患者さんから感謝をされたことが、今でも自分の人生の支えになっていると言われています。患者さん、医師、お互いに許しがあり、信頼関係が築かれる。不十分な医療事情、そしてまだ医師として未熟だった自分、結果として期待に応えられなかった自分を許し、感謝してくれる患者さん達を見るにつけ、許しの気持ちの大切さを感じられたのでしょうね。そして、柴田先生にはいつもアフリカの大地とそこに住む人々への「LOVE」が感じられました。

もう一人のライオンは川原尚行君です。彼は1992年に九州大学の医学部を卒業、ただちに九州大学第二外科に入局します。外科医としての修練を積んだのちに、肝臓グループに所属。海外に行きたい一心でタンザニア日本大使館の医務官となりました。次の赴任地がスーダンでした。医務官の役目は大使館の職員の健康管理ですので、現地の人たちへ医療を行うことはありません。目の前で苦しむ現地の患者さんを前にして、何もできない自分が歯痒く、その後、外務省を辞し、たった一人でNGOロシナンテスを立ち上げ、スーダンの医療支援を開始しました。スーダンの政治情勢が不安定な中、大変な苦労をしながら、もう20年近く、仲間の輪を広げながら今も粘り強く医療支援を続けています。内戦などもある中で危険と隣り合わせのような気がしています。くれぐれも無理をしないで、元気で支援を続けてほしいと願っています。

私は川原君の好意で、スーダンの首都ハルツームで開催された国際学会に招いていただいたことがあります。見学で訪れた病院で突然腹部のCTを見せられ、手術はできるか?と言われて、CTを見たところ肝の外側区域に20cmの肝がんがありましたが、日本の感覚で、これならとれると思うよ。と言いました。そうすると上腹部に大きな腫瘍を抱え、苦しみながら横たわる少女のベッドサイドに案内されました。19歳だったと記憶しています。B型肝炎による肝癌でした。残念ながら、このままでは余命1か月と思いました。そうしていると現地の内科医が『さっきのCTはこの子のCTです。明日手術をしてくれないか?』と言われ驚きました。スーダンでは病気で入院すると一族郎党が集まるそうで、手術できるなら病院の外にいる家族に話をするからと言われました。慌てて、どんな設備があるのか、麻酔は?輸血は?手術器具は?肝機能を含めた採血結果があるか?など確認しました。そもそも私は学会を目的で来ているので、術後の経過は診られないし、手術をしていいのか?など含めて色々悩みました。採血結果をみましたが、いわゆる血算だけで、肝機能指標と呼べる項目はありません。また、採血やCTの結果が実は数か月前のものでした。その時よりずっと病状は進行しているに違いありません。もう一度採血とCTをとってくれないか?その上で最終的に考えたいと言い、病院を後にしました。そうしないと、とても結果に責任が持てないと思ったのです。でもそれは日本的な考え方でした。一回の採血とCTの料金は現地の人たちにとってとても高額で、その少女の家族の一族郎党がお金をかき集めてやっと行えた検査だったのです。後で聞けば、もう一度検査をするお金はないということでした。結局私がその少女に手術をすることはなかったのですが、その判断が正しかったのか今でもわかりません。でも苦しんでいる少女を前に何もしなかったという後ろめたさは今でもあります。でも手術した方が良かったのか、どうすべきだったのか、今でも自分の中には答えはありません。ただ、国力や医療事情の圧倒的な違いが存在し、現地で提供できる医療やおそらくはその結果には限界があることを実感しました。

柴田先生は帰国後、さだまさしさんへアフリカでの経験を話す機会があり、当時20歳頃のさださんはその話を熱心に聞いていたようです。そしてさださんが「風に立つライオン」の曲を発表したのはそれから15年後、小説、映画になったのはそれから更に四半世紀以上の年月を経てからということになります。

柴田紘一郎先生は、私の父 調 亟治が当時長崎大学第一外科の助教授をしていた関係で、帰国後ケニアでのことを報告するために長崎の実家を訪れていただき、お土産として動物の毛皮の小さな太鼓や動物の写真のトランプ、そして木彫りの彫刻などをいただきました。長い間実家にそれらが飾ってあったことを思い出します。また、2016年の日本消化器外科学会総会にさだまさしさんを招聘したいという徳島大学の島田光生教授のご希望があるものの交渉が難しいというお話をお聞きしました。そこで柴田先生にお口添えをいただき、招聘できたことを思い出します。柴田先生はいつも謙虚で、「LOVE」の言葉がふさわしい穏やかで、温かく、そして優しい先生でした。

川原尚行君は九州大学第二外科の同じ肝臓グループの6年後輩にあたります。熱血漢でその純粋さや行動力にはいつも驚かされます。恵まれないスーダンの皆さんと歩む川原君の様には私はなれませんでした。だからこそというのも変ですが「風に立つライオン」としていつまでも元気でいてください、そのことだけを祈っています。

柴田紘一郎先生は帰国後、宮崎医科大学(当時)の外科の勤務を経て宮崎県立日南病院の病院長をお務めになりました。退任後は介護老人保健施設サンヒルきよたけの施設長を長い間お務めになられました。そして、2025年2月19日にご逝去されました。先生が愛したアフリカの大地やその住む人々を思い出しながらの旅立ちだったでしょうか。心から柴田紘一郎先生の御冥福をお祈りいたします。